喪失からの出発(五) 作:越水 涼
喪失からの出発(五) 作:越水 涼
久しく早い時間に帰路に就いた。田植え前の水をたたえた田圃に映る夕焼雲を目の端にとらえ運転していた。決算期のあわただしさがいくらか和らいだ最近。この光景を美しいと思える余裕が出てきたのだろう。
《 元気ですか。此の間はありがとうね。東京の方は雪が降ったそうです。二十四日も風が強く吹いていました。豊橋も風が強いだろうね。今日二十五日は青空に晴れ上がって風はまた朝から強く吹いています。雨ごとに暖かくなってきました、此の間は十一時五十二分の高速岐阜行きに乗って家には二時半に着いたのです。アルバイトは探せたでしょうかな。今度こちらに来る時には冷蔵庫に入れてあったみそを持って帰って来てね。こちらで新しいのと替えてやるから。来る時はこの前着ていたジャンパーを着て来ればいいよ。暇があったら夜にでも紺の夏ズボン、夏の背広の下のズボンを探しておくといいし、此の間の背広はしまっておくこと。虫が食うといけないので。風邪をひかぬよう、アルバイト、勉強の両立だけどがんばってやることです。困ったことは相談かけること。歯医者もきちんと行って治すこと。代金はいくらくらいかかったのかと父さんも心配しています。万円もならまたお金入れないといかんでさ。此の間少しやせていたので、歯が治ったら太るようにバランスの取れた食事に気を付けること。アルバイトやれば金も入るし体がなまってしまうといかんのでまた体を動かすとよいです。七月の試験にそなえてがんばってね。足らないものメモして来て家に来た時に持って行くといいから。また便りくださいね。くれぐれも体に気を付けて。こちらは今日は晴天です。風も止み。二十五日昼十一時半書く。 涼君へ 母より》
封筒の切手の消印は三月二十五日。最初の方に書かれている、家に二時半に着いたとの記述は、私の卒業式に出て電車を乗り継いで帰宅した時のことだ。三月に引っ越した新しいアパートに卒業式前日に泊まってもらい卒業式に来てもらったのだ。前日の晩飯は確か駅前に近い大衆食堂で一緒に食べたと思う。今思うと、大人になってから母と私二人だけで外食したのは後にも先にもこの時だけだ。もっともっと連れ出せばよかったのにと思う。ただただ、私の健康のことを気遣う手紙にいま感謝している。
母のこの手紙の裏に六十円切手が一枚、貼ったままになっている。これを使って手紙を出しなさいということなのだろう。私はこのあと手紙を出さなかったのだろうか?
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