喪失からの出発(十一) 作:越水 涼
喪失からの出発(十一) 作:越水 涼
戦後八十年の今年、八月の夏はかつてない四十度を超える熱気をもたらしている。しかし、あの夏の朝は別の類いの狂気の熱さが人々を襲った…。朝のテレビを見ながら、私は八時十五分に黙とうをしなければと思った。だが、職場に着いて今日の段取りを考えていると、屋上の補修工事の業者が受付に来たがために十八分になってしまった。私はそののち、そそくさと西の方向に向かって目を瞑った。
考えてみれば、豊橋で過ごしたのは四十年も前になる。そしてその四十年前には戦争があったわけで、私にとってもこの四十年が長くもあり短くもあるということか。
七月の土曜休み。私は旧友に約束を取り付け、その豊橋の地で会うことにしたのだった。岩井とは私が三年彼が一年の時に知り合って以来の付き合いだった。就職してから何年かは音信が途絶えたが、なぜか今から二十年位前に賀状のやり取りが始まって名古屋で再会したのはいつのことだったか。
「おう、久しぶり」
「久しぶりです」その辺を散歩するような服と履物の岩井は、前回会った去年の秋よりもかなり太ったように見えた。
「なんか、太ったんじゃない?」
「ですね、八十キロですわ」
「えー、そんなにか」
そんな言葉を交わして、最初の目的地へ向かった。豊橋駅の前を斜め左方向に行くと、ときわアーケード街がありその先の端、手前に彼との思い出もある”鈴木珈琲店”が相変わらずそこにあった。彼が先に階段を上がり、私も続いた。分厚い木の扉、そうドアと言うより扉なのだ。扉を押すと、あの頃と同じコーヒーの香りと、客の話し声やクラシック音楽が私達を迎えてくれた。違うのは、そう、煙草の匂いがしないことだった。
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