喪失からの出発(九) 作:越水 涼
喪失からの出発(九) 作:越水 涼
昭和五十七年六月の消印の手紙。「使ってください」と書かれた、罫線のない黄ばんだ紙に書かれた手紙だ。使ってくださいとは万円札の同封だろう。
《暑くなりました。元気ですか。やっと六月七日午後二時に出る宅急便で小荷物送ります。受け取りに行ってください。タオルケット、半袖パジャマ、Tシャツ一枚、焼きそば、冷やしラーメン他色々と缶切りを入れました。缶詰は家にもらったのがあったのを入れました。安物ばかりだが腹の空いた時、日曜日とかに食べて。自分の部屋に湯を沸かして持って行って作ってください。夏は口もまずいし、体も弱るから少しおいしいものを食べてくれぐれも体に気を付けて勉強してください。こちらはみんな元気で暮らしています。洋子も毎日元気で通学しています。今日は曇りで蒸し暑い日です。 六月七日朝八時半 涼へ 母より》
六月だから今からちょうど四十三年前の手紙。私は十八歳、母は五十歳か。三歳下の妹、洋子は電車と徒歩で一時間の商業高校へ通っていた。この手紙はひょっとしたら私へ書く最初の手紙だったかもしれない。子どものことを心配しながら日々の仕事や家事を何年も何年も続けていった母。初めて別々に暮らす息子のことは当然心配だったろう。それに比べ時々私は思う。自分はあまりに妻のことや子どものことに無関心なのではないかと。同じ空間にいて同じものを食べ、同じテレビ番組を見ていても、何を考え思って生きているかを知らないのだ。職場で何か辛いことがあるならと聞いてみても素っ気ない。私は頼りにされていないのかもしれない。けれど、健康でいてくれさえすれば、他に何か必要だろうかとも思う。テレビを見てゲラゲラ笑えるならそれでいいと。毎日のおはようとおやすみの日々があれば。
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