喪失からの出発(十) 作:越水 涼
喪失からの出発(十) 作:越水 涼
休日、妹の洋子に来てもらい、母の着物の入っている箪笥を整理した。私の記憶には母の着物姿はないのだが、「呉服の○○屋」とか「○○呉服店」と印刷された紙に着物が包まれていた。十段ほどあるその箪笥に着物と帯が何枚も保管されていた。嫁入り道具として持って来たのだろう。
《********** そうめんは二把で大玉ひとつできます。冷や麦は二百五十グラム一把で大玉三個できます。そのように茹でてください。すぐに茹だるのであまり茹ですぎないように。冷水で冷やして二人で食べてください。木村さんにもあげてください。色々と送りました。着いたら電話してください。********* 山登りや海に行く時はけがをしないように。バンドエイドも入れました。山は冬物のセーター、トレーナーも持って行くこと。寒いので安全にして、くれぐれも気を付けて行き、元気で帰って来ることを祈ります。また、お盆に帰る時は部屋のかぎなどきちんとして帰って来ること。夏は暑くなります。体に気を付けて、腹をこわさぬように、冷たいものをあまり飲まないように。シャービックも入れておきました。木村さんがいたら一緒に食べてください。私からだとよろしく伝えてください。今度来る時を楽しみにしています。置いて行った靴も入れました。床屋へ行くこと。 七月二十日 三時頃 宅急便送る 涼さんへ 母より》
当時、下宿の同じ部屋の先輩が木村さんだった。私に煙草と酒を教えてくれた人だ。母も世話になっている木村さんにも食べてもらうよう色々送ってくれたのだった。山のことが書いてあるのは、この一年生の夏に北アルプスに登ることを話していたのだろう、生きて帰ってくるようになんて書き方をしている。だが、もちろん三千メートル級の山に初心者が行くのだ。心配するのは当たり前だった。当時の私は、何でもやってやろうとの思いで、目の前にチャンスがあるなら初めてのことでもやってやろうと思っていた。この北アルプスへのサークルの夏合宿もその一つだったのだ。大天井岳、常念岳、槍ヶ岳といった山々を登った。十八歳と十九歳の四人の若造で。今思えば無謀だったと思う。テントを予定していた場所には大幅に時間が遅れ、暗闇の中やっと着いたことなど、今となってはいい思い出だ。母は遠く離れて何をやっているかわからない息子を毎回毎回手紙に心配して書いて来たのだ。そんな心配を、愛情を、有難いと思うこともなくそれから約五年の豊橋での波乱万丈の生活が始まったのだった。
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