喪失からの出発(八) 作:越水 涼

 喪失からの出発(八) 作:越水 涼

 この狭い部屋で、あることから遠ざかろうとしていた私は余計に一人の世界へと埋没して行った。けれど、一年生の時に同じクラスになった男がこの下宿にいたのが幸いし、部屋を行き来していた。名古屋へプロレスを見に行ったのもこの下宿にいた時だった。長州の背中を触った記憶がある。ほぼ向かいにあった別の下宿にいた後輩のところへも遊びに行った。それはそれで楽しいこともあったのだろう。もちろん酒も飲むこともあったし、当時の私は煙草も吸っていた。私の部屋に来た後輩が話す。

「先輩のとこの由未さん、彼氏いるんですか?」

「どうだろう?」同じサークルの由未とKは付き合っていた。私はKにくぎを刺されていたのだった。「あいつ、由未のこと狙ってるみたいだけど、俺達、泊りで旅行行ったし」そんなことを聞いていた。私はとりあえず、曖昧に答えたのだった。

「可愛いすよね?」〈確かに俺もそう思うけれど、相手がいるからなあ〉とは言えず。

「アタックしたらいいんじゃない?」そんな風に言った。

 丁度四十年前のことだ。私が今も聴く音楽、Hを勧めてくれたのもKだった。私と同学年のKはもっと前からHを聴いていたようだ。私には駅前の楽器店のショウウインドーに何枚も飾られたアルバムレコードの記憶が鮮明にある。そのアルバムのジャケットには、青のジーンズに黒いブーツ、サングラスをかけた白いTシャツの青年が描かれていた。”雨あがりの路上に映る街。そして青春。”とコピーが付けられていた。その頃はKに何本もカセットテープに録音してもらい、ウオークマンに小さなスピーカーを繋いで聴いていたように思う。

 母の心配をよそに、私は同世代の同じ階層の友人と喋り、飲み、笑ったり泣いたりしていたのだと思う。母からのこの手紙の頃は、せっかく内定が出た会社に手紙一枚で辞退し、公務員試験を目指すことにした後だった。社会がどんなものか知らないまま、もう一年猶予ができたなどと自分に言い含め、誤魔化していたのだ。そうだ、もう一年残ると公衆電話から電話で母に話したのはいつだったろうか?この少し前なのだろう。泣いてたよな。途中でお祖母さんに替わって、話したんだ。新聞の切り抜きの「公務員採用試験・全書」の広告部分が手紙に同封してあった。母も気持ちを切り替えて、再度頑張れと思ってくれたのに、その頃の私とは本当に駄目な奴だった。私が大学生になって離れて暮らすことになった父、母、祖父、祖母、そして何より妹のことも意識の外にあった。私の気持ちが少し違っていたら、今も何か違う人生だったのだろうか?

コメント

人気の投稿