私はいつまでもあなたと歩きたかった 第五章 回想(三) 作:越水 涼

第五章 回想(三)

 大清水駅には十分程で着いた。私達以外には一人の客が降りた。ふと、母に電話しなきゃと思った私は、駅に着くなり電話BOXを探した。
 すぐに、駅前にある電話BOXに入り家に電話した。母には、下宿している同級生の女子の部屋に泊めてもらうと、嘘をついた。母は、それもたまにはいいんじゃないと言うだけでそれ以上詳しくは聞かなかった。
 私は小さい頃から手のかからない静かで従順な女の子として通っていた。高校生の時も夜は八時には帰宅していたし、誰かと泊まりで旅行に行くことも勿論なかった。

 電話をしている間、浩二は少し離れて煙草を吸っていた。電話が終わり彼に近づいた。
「とりあえず、トイレに行って来いよ。僕は済ませたから」と彼。
 私もそそくさとトイレを済ませ、彼と並んで歩き始めた。
「浩二さん、ここから何処へ行くんですか?」
「うん、いい物見せてやるから楽しみにしとれよ」
「何処まで行くんですか?」
「多分喜んでくれると思うな。僕も去年初めて来ただけなんだけどね。一時間ぐらいかかるけどね」
「えっ、そんなに歩くんですか?私、今日サンダル履いてますけど」
 今日はもう雨の降らない事を天気予報で知っていた私は、久し振りに素足にサンダルで大学に来ていたのだ。

 駅前から延びる道を南へと下って行く。歩道を歩いているのだが、いやにスピードを出して走る車の音に少し恐怖さえ感じた。その音の為か、彼も喋らなくなって、二人歩き続けた。陽も大分傾き、私の腕時計は六時半を指していた。
 道を逸れて、やっと静寂が来て海の匂いがして来た。もう一時間は歩いただろうか。私はいよいよ足の小指が痛くなって来た。と、立ち止まった私に彼は声をかけて来た。
「おっ、どうした?疲れたよな。悪いな。ちょっと無謀だったかな?こんなに歩くことなんて、今無いもんな」
「はい。何か足が痛くって。少し休んでいいですか?」
 半べその私に、彼は一瞬考えた後言った。
「じゃあ、おんぶしようか?」
「えっ、どうしようかなあ。おんぶなんて恥ずかしい」
「気にするなよ。弘子も小さい頃はお父さんにおんぶしてもらった事あるよね?」
「そうですけど」
「じゃ、どうぞ」
 彼はすっ、としゃがんで私に背を向けて促した。そして、おんぶされた私は、彼の首に両手を回し自分の右手で左手を掴んだ。私はその時、自分の胸が彼の大きな背中に密着するのが、何か困った。

 既に、七時を回り暗くなって来た。と、その時前方の標識に「伊古部」の文字があった。
「ここは伊古部海岸。もうすぐ砂浜が見えてくる筈だよ」
 私達は傾斜になった砂浜に降りて行く。前方に見える海には、日没の余韻があった。その時、彼は、本当は裸足になると気持ちがいいんだと言ったが、足が痛いから嫌だと私は言い、そのまま彼の足が少し砂に埋もれ乍らも、ずんずんと歩いて行った。
 水平線の上の空は橙から藍へと変わっていくところで、その見たこともない様な色の美し
さに私は驚いた。
 やっと、海岸線に着き、そこに横たわっていた大きな木に二人腰を下ろした。
「あーえらかったなあ。こんなに歩くとは思わなかったよ。ごめんね」
 彼は本当に申し訳なさそうに言った。
「はい、疲れました。でも、海の黄昏って言うんですか、凄くきれい」
 実際、私には海の黄昏時にタイミングよく出くわした経験などなかった。

「ここはね、浜名湖から渥美半島の伊良湖岬まで続く海岸線の一部で、アカウミガメが産卵に来るんだってさ」
「アカウミガメ?」
「そう、大きいのだと一メートルもあって五月から八月にかけて産卵する。孵化した子どもは一目散に海に入って、世界中の海を旅して、生まれた浜へ戻って来るんだって。残念乍ら、ほんの僅かなカメだけらしいけど」
「そうなんですか?凄く神秘的ですね」
「だよね。こんなこと聞いたら、人間なんて彼らの足元にも及ばないよね」
「はい」
「所詮、人間なんて小さい。小さい。だから五木寛之も言ってるけど、人間生きていることだけでそれが奇跡なんだよね」

 それから、いつの間にか空に輝く月明りの下で私達は色んな話をした。彼には三歳下に妹がいること。将来はテレビでドキュメンタリー番組を作ったり、人を感動させるようなドラマを作ったりしたいという夢があること。海無し県出身だから海にあこがれていたこと、等々。
 今日ここへ来ることはいつから考えていたのかという、私からの問いに彼は、
「弘子と初めてBOXで会った時さ。きっと喜んでくれるって思った」

 静かな波の音を聞き乍ら、八月一日を迎えた。彼はおはよう、と言って微笑んだ。
 どれくらい経ったのだろう。会話が無くなり、ふと気が付くと空がほんのりと明るくなって来た。夜には見えなかった紋様が砂に現れた。そうして暫くすると海の奥の空が赤く染まり、その後水平線に大きな太陽が昇り始めた。横を見ると、彼の頬を涙が伝っていた。

 目を開ける私。いつの間にか眠ってしまったようだ。ベッドの横のテーブルには昨日一口だけ飲んだ発泡酒の缶。部屋のカーテン越しに外の日射しが見えた。



 

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