喪失からの出発(三) 作:越水 涼

  喪失からの出発(三) 作:越水 涼

《 前略 父上さま 母上さま

 僕はこのところ朝六時には起きて夜十時には寝る生活を送っています。なぜかというとアルバイトがあり、朝八時から夜五時までやっているからです。豊川のスズキ自動車工業の中でいろんな作業をしています。一日六千五百円ですが、交通費と昼食(工場の食堂でいろいろある)代を引くと六千円弱になります。六時までには豊橋に着くので六千円ずつ銀行に入れてから下宿に帰って来ます。つもりとしては三月の中旬ごろ迄やりたいと思っています。残業を三時間やると九千円ぐらいになるのですが、歯医者にも行っているのでそれはできません。まあ、以前やった土方のバイトや測量のバイトに比べれば自分としては楽だと思っています。工場という労働現場で働くのは初めてなので、いろいろ勉強にもなります。

 さて、僕は時々、旧い下宿に行って何か来ていないか見ているのでたしか十三日に宅急便は受け取ったので心配しないでください。また、新しいアパートではたぶん部屋のドアの前に置いて行ってくれる(宅急便屋が)と思います。二階なので盗まれることもないと思います。火事のことですがそれほどくどくどと言われなくても外出するとき、寝るときはガスは元栓、電気はコードを切るので心配しないで下さい。旧い下宿と違って、朝六時には窓から外の光が入ってくるので朝も起きやすいので助かります。

 卒業式は前にも言ったように三月二十日に豊橋の勤労福祉会館で行われます。「豊橋」で降りてちょっと歩いて「新豊橋」から乗って「南栄」で降りてまた十分くらい歩けばいいです。たぶん人の流れがあるからそれに従って歩けばわかります。前の手紙には、それ以前にこちらに来る場合、三月上旬がいいと書きましたがバイトの関係でまだわかりません。またそれは連絡しますので。

 かんたんですが、これにて失礼します。お元気で。また。草々。二月二十二日。   》

 私への手紙の封筒の差出人はいつも父の名前が書かれていたから、私のこの手紙の宛先も父の名前にしてある。勿論ほとんどの手紙が母が書いたものだったし、私も父に対してではなく母に対して書いていたように思う。読み返してみると、二十二歳の大人の各文章ではない。内容も自分本位で、私を心配してくれる母に対しての感謝が一切読み取れない。何て親不孝者だったのだろう。足の不自由な母に何分歩かせようとしているのか。ただ、思い起こすと卒業式には母が来てくれた。前日に来てくれて夜はアパート近くの大衆食堂でふたり晩飯を食べたのを覚えている。四十年も前のことだ。もう一回くらい母と食べに行きたかったと思う。

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