或る古書店店主の物語 第五十章 恵子(十三) 作:越水 涼

 第五十章 恵子(十三) 作:越水 涼

 恵子と随分長い時間話している。目の前にいる恵子の顔を確かに見ながら、確かに会話をしながら、私はもう一つ別のことを考えていた。それは、ここ数か月私の頭からいつも離れずにいるある思いだ。

〈この場所から離れる時が来ているんじゃないのか〉

〈もうこれ以上家族と離れたままでいることが正しい、意味のあることなのか〉

 定年の日に西へ向かって、縁あってこの地で幾度かの季節を過ごした。その毎日の古書店での仕事や、近所の人達との何気ない会話、思いがけず訪ねて来てくれた古い友人達との時間。それらすべての出来事は私のあの日の虚しい心にだんだんと色を付けてくれた。その思いに間違いはない。

 その一方で、妻や娘のいる場所へ帰るべきではないのかと思うようになったのだ。時になんでここでそんなに怒るのか、と思うこともあった。何でこっちのペースに合わせようとしてくれないのかとも。でもそんなことはお互い様なのだ。誰も彼もが同じ方向を向いているわけではない。時に喧嘩し、時に諦めて、自分の本当の気持ちに蓋をして、そんなこと当たり前のことなのに。そんな生活の繰り返しこそが人生ってものなんじゃないか?そう思うようになった。

「河井君?どうかした?ぼーとして」

「ああ、ごめん、ごめん」

「それでね、河井君はいつまでここにいるつもりなの?その奥さん、何にも言ってこないの?」

「いや、たまに電話くれるけどね。帰って来いとは言わないよね。あいつも多分、俺が何を考えてるのか分からなかったんじゃないかな、ずっと」

「へえ、そうだったの?お互い分かり合ってるんじゃないの?」

「いや、そんなことないなあ」

 恵子からの問いかけがより一層私の思いの輪郭をはっきりさせていた…。

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