私はいつまでもあなたと歩きたかった 第七章 彼の告白 回想(五) 作:越水 涼

 第七章 彼の告白 回想(五)

 精文館書店は豊橋に古くからある書店だ。文学書、専門書、雑誌の他にも勿論、文具やノート、日記類も売っていて、彼はそこで日記を買った。透明なビニールカバーの付いた厚い表紙のA5判の物だった。私に、これでいいかと聞くこともなくさっさと会計を済ませた。今思えば、その場所にそれがあることは前に確認してあったように見えた。いつ、買うと決めたのだろう?

 さっきは、ラーメンを食べようと言っていた筈だった。その後、ときわアーケードを歩き半分の辺りにある、「鈴木珈琲店」の前で彼は立ち止まった。店は急な階段を上がった二階にあった。彼の後ろを付いて行き、黒い階段を昇り終えると、重く分厚い木の扉を押して店内に入る。ふわっとコーヒーの香ばしい匂いが流れて来た。扉の上部に付けられたドアカウベルの音の余韻に店員の「いらっしゃいませ」の声が重なった。

 左側にカウンターがあり、その内側に店員が二人。右には意外にも奥の方まで幾つものテーブルがあった。やはりそれらは全部黒を基調にした厚みのある木で、椅子も背もたれのない物だった。テーブルの塗料は所々剥げていてそれがまた何とも言えずいい味わいを醸し出していた。間もなく白いカッターシャツの男の店員が注文を取りに来た。

「何になさいますか?」

 渡されたメニュウを開けてくれた彼は私を見て、何にするかと聞いても十八歳の私はまだコーヒーなど飲む習慣がなかった。

「どうしようかな」

「アイスコーヒーでどう?ミルクでもいいし」と彼が促す。

「じゃあ、アイスミルクお願いします」

 今度は店員が彼に向き直る。

「僕は…、ミケランジェロ」

「…」

 店員も、私も一瞬、表情が止まった。

「ああ、違う、キリマンジェロか」

 店内の照明は暗かったから彼の顔色はあまり分からなかったが、きっと真っ赤になっていただろう。

 この時のことを大分後に聞いたのだが、彼は凄く緊張していて、本当に間違えて口から出たのだと言った。注文した物が来る迄の間、彼は”Dakota”と書かれた赤い布カバンをがさごそしたかと思うといつものセブンスターを取り出し、マッチで火を点けた。続けざまに煙を吸う彼の指は少し震えていた。

「ここよく来るんだ。学生はコーヒーと煙草だから」

「私はコーヒー飲んだことないんです」

「そうなの?煙草は勧めないけどコーヒーは飲んだほうがいいよ。コーヒーの苦いっていう字、苦しいっていう字と同じじゃんねえ。学生は苦しみを学ぶもんだからさ」

「はあ…」

「苦いっていえば、ビールもそうだし、煙草もそうだけどね」

「私、ビールも煙草も知らないです」

「ああ、ごめん、弘子はまだ十八歳だったか」

 店員が来て私の前にアイスミルクとストロー、彼の前に上品なコーヒーカップとフレッシュが置かれた。ごゆっくりどうぞと言う店員の目は、さっきのことで、心なしか笑っている様に見えた。砂糖もフレッシュも入れずブラックのままそれを味わうかのようにゆっくりと少しずつ彼は飲んだ。大人なんだと思った。そしてカップを一旦皿に戻して静かに言った。

「僕の彼女にならない?」

 まっすぐ私の目を見る彼。そして、さっき買った日記を取り出す。

「交換日記しよう。何でも書こうよ。周りに人がいると話しにくいこともあるしさ。話すのが苦手でも書けば伝わることもあるしさ」

「彼女になるって、私のどこがいいんですか?それより、今付き合っている人いないんですか?」

 私はあの日にもう決めていたが、そんな風に聞き返してみた。

「付き合っている人はいないよ。そうだな、弘子の涼しげな目が好きになった、それと、その小さな指」

変なことをいう人だなあと思いながらも聞き返した。

「指なんていつ見たんですか?恥ずかしい」

 カップと皿のぶつかる音や隣の席のお客の笑い声、店内に小さく流れるクラッシックの音が数秒消えたように思った。私にとって、彼女になってほしいと男の人に言われたのは初めてのことだったのだ。

 


 

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