想い出は鉄道とともに(前編) 作:越水 涼

想い出は鉄道とともに(前編)  作:越水 涼

 これは今からすれば三十三年も前のことである。私が所謂、社会人になり始めの話である。初め私は電車通勤をしていた。母に朝起こされ、弁当も作ってもらい、家から駅まで徒歩で五分。そして大概決まった時間の電車に乗った。流石に七時何分発だったかまでの記憶は無い。勿論何年経っても記憶している人も居るであろう。その電車も車社会の到来とともに赤字路線となり、今から十五年程前に全線廃止されてしまった。その路線は、高校に通った三年と先程述べた通勤の約四か月の間、必要不可欠なものであった。

 その四か月間の中でも最初の頃の話である。記憶とその他の条件から考えて多分三月中旬のある日、私はいつもと同じように吊革に摑まり、窓の外の夜の風景と窓に映る自分とその周りの客の姿を見ていた。愈々電車は最後の曲線に入りスピードをかなり落とし警笛を鳴らす。

「くろの~くろの~」のアナウンス。「お忘れ物の無いようにお気を付け下さい」と続く。私は車両の出口に向かったのだが、座席から立ち上がりその真上の網棚の荷物を取ることなく降りようとする女性に気付いた。あの人のだろうなと、つまり降りるのは私が最後の客だからと確信した私は、さっとその包みを摑んだ。ピンク色のセロハンか何かだったと思うが、中には生け花の作品と思われる梅の木があった。飛び降りるようにホームに降りた私は前方の改札へ向かうさっきの女性の後ろ姿を認めた。やっとのことで改札を通り彼女を呼び止めた。

「すみません。これお忘れじゃないですか?」私の声に振り向く彼女。

「あっ、ありがとうございます」すぐと自分の物と気付いた彼女は深々とポニーテールの頭を下げた。

 ほんの少しの間があったが私は、失礼しますと言った。彼女は、おやすみなさいと言った。駅から家への数分私の頭に、あの上品な笑顔とハイヒールの足音がへばり付いて離れなかった。その翌日から私は彼女の姿を探すようになった。朝は大抵の場合一緒になり、周りの雑音、電車のガタン~ゴトンの音にもめげず、色んな話をした。

 実は私はその女性を以前から気にはしていたのだった。その鉄道には走っているエリアがエリアだけに私を含め田舎者が多いのだが、その空間の中で彼女は一人輝いていた、都会にもいそうな上品さと色白ですっとした小さな滑り台の様な鼻をしていた。歳は私の予想では二、三歳下に見えた。当時の私は大学での五年間の色々な事を全て遮断して、田舎に戻って来て、心機一転の間もない頃だった。恋人が欲しい気持ちはとても大きかったのだ。 会社では営業マンとしてまだ先輩達の鞄持ち状態ではあったが、社会という一つ大きな世界に出て、仕事に対しては勿論のやる気があったし、同時に同年代の女性の心も体も欲していた。

 翌日の朝は、ただ一点何を彼女と話すのかだけが頭にあった。いつものように彼女はホームで自分の乗る電車を待っていた。私は彼女を見つけると傍に立った。

「おはようございます」

「あっ、おはようございます。昨日はありがとうございました。助かりました」

「いえ、よかったです」よかったというのは何も彼女にとってというよりも、私にとってという意味でだ。

 こうしてほぼ毎朝と帰りの電車でも週に一度は一緒になって色々な事を話した。私の会社のこと、やっている仕事、好きな芸能人のこと、学生時代の部活のこと、家族のこと、昨日観たテレビドラマのことも。

「誕生日はいつ?」

「三月三日。美雪っていう名前ももう降らないと思ってた三月三日の朝、結構雪が積もってそれがきれいだったからって聞いた事ある」

 残念ながら過ぎていたが、私はそれを聞いたその頃、会社での給与の口座の暗証番号を決めてほしいと総務の子に言われてその誕生日”○○三三”にしたのだった。それから三十三年彼女から離れられないでいる。

 電車の中では雑音の中ではあったがその三十分程の会話は今もいい思い出になっている。車通勤には無い電車通勤の醍醐味だろう。彼女と話すようになって二か月程経った頃だと思う。やっとのことで彼女を誘った。電車の外に誘った。

「今日帰り、ちょっと話があるんだ」

「うん、何?」

「うん。ちょっと大切な話。千手堂の電停の近くの”武蔵屋”に来てくれないか?」私は以前聞いた彼女の会社の最寄りの電停近くの喫茶店の名前を言った。

「うん。いいよ。七時なら行けると思う」

「ありがとう。じゃあ、七時にね」私はその日一日仕事にならなかった。

                                            以下、後篇に続く



コメント

人気の投稿