想い出は鉄道とともに(後編) 作:越水 涼
想い出は鉄道とともに(後編) 作:越水 涼
その日は、いつもと同じように、営業の先輩と同行していた。滋賀県が担当のその先輩とは途中でほか弁を買って、琵琶湖の前で昼食となった。食べている時も私は仕事の後のことばかり考えていた。
「河井君は恋人はいるの?」と先輩は口をもぐもぐさせ乍ら聞いてきた。
「いや、いませんよ」
「俺もそろそろ三十過ぎて結婚考えとるんやけど。友達も皆、結婚しだしたから焦り始めてまってさ。見合いもうまくいかなくてさ」先輩は笑い乍ら言った。
目の前には琵琶湖が広がり、先には大きな橋が見え、もう一か月前なら凄く奇麗だったろう桜並木も別の方に見えるのだが、私には今その風景を楽しむ余裕などなかった。ましてやこの先輩の結婚話など聞きたくもなかった。その日は滋賀大学や彦根城を回って会社には六時に帰ってきた。私はそそくさと日報を書きタイムカードを押して会社を出た。足早に待ち合わせ場所へと半分駆け足で急いだ。
七時、待ち合わせの店に三十分も早く着いた。なるべく奥の席へと進む。半分腰の曲がったお婆さんが水とおしぼりを持って来た。もう一人来るから注文は後でと言って周りを見回すと、壁には額に入った風景画が幾つも飾られ、二組の客がいた。
どうやって今日の話を切り出そうか、今更乍ら決まっていない。あんなに色々話して来たんだ。私の事はかなり分かってくれている筈だと思っていた。半年前にそれまで付き合っていた恋人との関係が自然消滅していた私にとって、今日は正に心機一転の日とすべくあれこれ考えて来た。そうするうち七時になろうとする時彼女が入って来た。店内を見回す彼女はすぐと私を見つけ歩いて来た。
「お待たせしました」
「お疲れさん。僕も今来たとこ。何飲む?」
「私は、レモンティー」
そのタイミングでさっきの店員が来た。
「レモンティーとホットコーヒーで」と私は言った。
暫くすると店員が来てそれらを置いて行く。小皿に小さなチョコレートがあった。
「私、近くなのにこの店始めて来たの。何だか落ち着くね」
「うん。そうだね。ジャズか」今迄気付かなかったが低い音量でジャズがかかっていた。
彼女が私を見ている。どう切り出そう。おしぼりで再び手を拭いた私はやっと話し出した。
「単刀直入に言うよ。僕と付き合ってくれないか?恋人として」
「……」彼女は私を見てはいるのに声を出さずにいる。
「今まで電車で色んなこと話して、凄く僕のタイプなんだ。大切にするから。歳も丁度いいしさ」もっと洒落たことが言えないのかと思ったが勇気を出して言った。
「好きだから、美雪」
ほんの少し間を置いて美雪は口を開いた。
「私、今、付き合っている人いるの。高校の同級生でね。河井さんとは全然違うタイプ。自分勝手で、強引で、いつも振り回されるんだけど。でも何でだか付いて行っちゃうの。そんな感じ。高校一年からだから五年位かな」
私は何も言えず黙ってしまった。そうか、そうだよな。こんな子に彼氏いる決まってるか。きっと背が高くてかっこいいんだろうなあ。背の低さを負い目に感じて来た私は勝手に負けを結論付けた。
「そうなんだ。分かった」もうそれ以上何も言えず私は俯いて、冷めたコーヒーをすすった。
その後、会計は私が済ませ外に出た。勿論、千手堂の電停から一緒に電車に乗った。しかし、その時の私は前のように彼女と話をする大人の振る舞いなどできる筈もなかった。二人並んで立っていたが終点までずっと窓を見ていた。
あくる朝からは挨拶はするものの何を話すでもなく同じ電車に揺られた。そうするうち、私は離れて文庫本を読むようになり、時に彼女は知り合いと笑いながら話しているのを見ては心が沈んだ。もっと人間的に大きくならねばと思い立つまでにはまだ時間が必要だった。そして、私は仕事上終電に間に合わない位の日があるようになって、車通勤になり、彼女と会うこともなくなったのだった。
しかし、この失恋の記憶は同時にその前の彼女との色んな会話の記憶とともに私の心に留まっている。彼女と話し乍ら見た車窓からの田園風景。老人に席を譲って微笑みあったこと。そして、初めて声を掛けた夜のこと。
彼女は今、幸せでいるだろうか。そうあってほしい。ただ、想い出は鉄道とともに…。
後編 了
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