或る古書店店主の物語 序章 定年の日に西へ逃げる 作:越水 涼

序章 定年の日に西へ逃げる

 何を思ったか、私が逃げるように列車に飛び乗ったのは定年の日だった。

 その朝も妻はそれ迄の約三十年と同じように弁当を持たせてくれ、「気を付けてね」の一言を投げかけてくれた。なのに、その日私は家には帰らなかったのだ。何が不満だったわけではない。それ迄も、定年になったらあそこ行きたいねとか、野菜は玉ねぎは作りたいねとかいう話をしていたのに、である。娘達も早々と独立し、それぞれに自分の人生を時には歯を食いしばり大変な仕事に立ち向かい、時にはどこそこへ行って来たよと土産を持って来てくれる。そのままでよかったのに私は家に帰らなかった。その日は恐らく、珍しく三人ともがキッチンに立ち、私だけの為にきっとご馳走を作ってくれていた筈なのに。

 JRに飛び乗り何の考えもなく西へと向かった。その日はもう時間も遅く彦根駅で降りることにした。肩に掛けた鞄には財布と手帳とA5ノートが入っていた。財布には現金三万円ほどとクレジットカードと使いかけのクオカード。これだけあれば何とかなると思った。

 窓の向こうに移る夜の灯を見ながら、不思議と途中で引き返そうという気は起こらなかった。何かを考えていたわけではないがふと気が付くと列車は静かに彦根駅に着いた。外は湿った雪がかなりの勢いで降っていた。まずは泊まるホテルを探さなければならない。私は小走りに改札を抜けるとたまたま前方に見えたビジネスホテルへと向かった。

 この時思い出したことがある。学生の時のことだ。後期試験の出来が散々で終わった最終日だ。その日も同じように、丁度その日が二十一歳の誕生日だったのだが、僅かなお金と煙草とその時読んでいた文庫本を持って当時の国鉄の列車に飛び乗ったのだった。豊橋駅から彦根駅まで当時の私にとっては長い旅だった。そしてまさにその時降り立った彦根駅前も雪が降り積もっていた。そして私は適当に歩いて偶然あった鄙びた旅館に入ったのだった。

 六十歳の私がこんな大それたことをしでかして、妻はどうしているだろう?駅のごみ箱に捨てた携帯電話はいつか発見されるだろうか?なるようになるさ、と私には妙な自信が沸き上がっていた。

 ホテルのフロントに辿り着いた時にはもう十一時を回っていた。

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