或る古書店店主の物語 第一章 雪の朝 作:越水 涼

第一章 雪の朝

 目を覚ますと見慣れないベッドの上に私はいた。数秒ののち、そうか、ここは家ではないんだ、昨日定年を迎えたのだ、もう今までのように会社へ行かなくていいのだ、と思い至った。少し頭が痛い。昨日寝る前にホテルの部屋の小さな冷蔵庫の缶ビールを空腹のまま続けざまに三本飲んだのだった。

 ここまで思い出した後で私は毛布をはねのけ、ベッドのうえで正座をした。いつもの様に両腕を真っ直ぐ上へ大きく伸ばして、何度も両肩を上げ下げした。いつもと違うのは畳の上のせんべい布団ではないという点だけだ。私はすくっと立ち上がるとトイレを済ませ、カーテンを開けた。ベッド横の時計の針はもう九時を指していた。冷蔵庫の横にあるカップにポットのお湯を淹れてからスティックコーヒーを入れた。

 私は三回息を吹きかけて冷ましそれを一口だけ飲んだ。そしてやっと大きく息を吐いた。昨日まではドリップ式コーヒーメーカーでコーヒーを淹れるのが私の役目だった。妻は弁当を作りながら私の淹れたコーヒーについて「今日はおいしいよ」と言う時もあれば「これ、ちゃんと計ったの?何か濃すぎない?」と言うこともあった。

 今頃妻はどうしているだろうか?私の携帯に何度も電話しているに違いないと思った。心配しているだろう。泣いているだろう。何の連絡もせずに家に帰らなかったことは結婚して三十年の中で一度もなかった。これが普通かもしれないが。そう、私はごく普通の夫だったと思う。仮に飲み会の後友人宅に泊まることになるかもしれない時は勿論何日も前に妻の了解を取った。その程度のことは二、三度あったと思う。

 さて、今日からどうしようか?今更ながら何の計画もないまま家に戻らなかった自分に呆れていた。それもよりによって定年の日に。いや定年の日だったから魔が射したのか。いずれにしても、まだ帰るわけにはいかない。

 熱めのシャワーを浴びてさっぱりした後、十時、私は空腹のままチェックアウトして外へ出た。雪の朝だったが空は青く澄み渡り、それ程寒くは感じなかった。まずは着替えとそれが入る鞄を買うことにした。前方に”イオン”が見える。とりあえずそこで買えばいいだろうと思った。

 私は買い物と簡単な食事を済ませてから本屋へ入った。時刻表と旅行本を何ページか見て、瀬戸内海に浮かぶその島へ行く決心を固めた。新幹線で神戸まで行き、バスで港まで行けばいいようだ。今日のうちに何とか島に着けると思った。

 私は再び彦根駅まで歩く途中で思い出していた。私が就職して確か三回目の盆休みに一人旅で行ったのがその島だった。フェリーの甲板で強い海風に目も開けられない位だったが、気持ちはうきうきしていた。自分の稼いだ金で一人旅をしているという何か誇らしげな気持ちだったからだろう。その夏の風は私の胸を一杯にしていた。ただそれこそ三十五年前のことだ。残念ながら他には醤油工場の横の道を歩いた記憶位しかない。ただ何故だか今日ふいにその島が頭に浮かんだのだ。何かがそこであるような気がした。今はそれしか頭になかった。

 私は駅に着くと乗車券と缶コーヒーを買った。まずは神戸を目指した。



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