或る古書店店主の物語 第二章 出会い 作:越水 涼
第二章 出会い
折角の神戸だがバスの時間も限られるので港へ向かうバスに乗った。そして港で一時間程待ったのち、私はフェリーに乗りこんだ。十三時半発で十六時五十分着。前方には小さく見えるその島まで三時間もかかるのかと思った。最初、三時間は余りにも手持無沙汰だと思ったのだがこのフェリーは四階までありその上は展望デッキもあった。色々回れば意外に時間も早く過ぎるようにも思った。
フェリーが港から離れて十分程経ってから、まず私は展望デッキまで上がり、三百六十度見渡せる瀬戸内海と小さな島々を見た。空は青く澄み渡りわずかに白い雲が浮かんでいた。デッキにはこんなにもいたのかと思う程客がいた。毛糸の帽子を被った女の子が父親に肩車をされていた。望遠レンズを付けたカメラでしきりにシャッターを切る中年男性。カモメだろうか白い鳥が何羽も空を飛び回っている。ただ前回乗った記憶を辿ってもこんな風景だったかなあと思うばかりだった。
三十分程して四階に降りた。壁に貼ってある船内の図を見てみた。ゲームコーナーがあったが立ち寄らず三階へと行った。そこには自由に座れる大広間があり家族連れが沢山いた。私はどちらかというと椅子のほうがいいと思い二階へ降りた。そこには自販機があり、うどんなどを食べられる売店もあり、ここの洋室の自由席のイスに座ることにした。全部の階にカーペットが敷かれまるでホテルの客室の廊下のようだった。私は鞄を足元に置き目をつぶった。昨日からの自分の突飛な行動で緊張しっぱなしだったからだろう。少し疲れていた。
いつの間にか眠っていた。私は肩を叩かれ目を覚ましたのだった。
「何かうなされていたようでしたよ」
私の横の席には白髪の老人がいた。老人はどういう積りか傍の自販機で買ったであろう紙コップのコーヒーを微笑みながら私に渡した。
「よければどうぞ。最初は静かによく眠っておられましたが何だか苦しそうに見えたので起こしました」
七・三に分けた白髪で眉の太い老人は、よく通る太い声で私に言った。
「あっ、ありがとうございます。コーヒーまで。すみません。少し疲れが溜まっていて。眠る積りはなかったのに眠ってしまいました。変なこと言ったりしていませんでしたか?」
私が見ていた夢は時々見るもので、大学の講義をすっかり忘れていて欠席してしまうというものだった。さっき見ていたのは確か試験期間中なのに試験を受けなかったという夢だった。大抵の場合、これは夢なんだと意識して見ていて安心して起きることなく眠りに戻って行くのだ。何故学生でなくなってから四十年近くもなるというのにこんな夢を未だに見るのか分からない。何かを暗示しているのか、何かを警告しているのだろうか。
「いえいえ。何も言葉はなかったですよ。うーん、うーんと眉間に皺を寄せながらうなされていましたが」老人は頷きながら言った。そして続けた。
「ご旅行ですか?」
「はい。気ままな一人旅です」
私は自分で気ままじゃないよなと思いながらもついこの老人の笑顔につられてそう答えてしまった。
そして私は初対面のその老人に何故か促されるままに、自分の今までの人生について話したのだった。ただ主に会社に入ってからのことと家族を持ってからのことを中心に掻い摘んで話した。そして何故今このフェリーに乗っているのかも。特に四十歳代に余りにも多くのこと、それは最愛の祖母との別れ、課長としての様々な悩み、子育ての悩み、体の不調、父との別れ、妻との関係などで時に自分の容量を超えて精神的に参ってしまったというようなことを吐露したのだった。老人は静かに頷きながら私の目をしっかり見て聞いていた。
「見たところ私よりはお若いようだが、定年ということは六十歳ですか?私はもう四捨五入すれば八十歳ですが」
「六十五歳まで続けられたのですが断りました。もうこれ以上はやめておこうと思いまして」
「そうでしたか。実は私の店を代わりにやってくれる人を探していたところなんです。あなたがもしよければ是非引き受けてもらえませんか?」
老人は自分が長くやってきた古書店を半年間代わりにやってくれる人を探していたというのだ。今日のように時々神戸からの帰りに客の顔を見ては話しかけているという。どうやら私の顔と経歴を気に入ったということらしかった。半年間というのは海外旅行に出かける間とのことだという。
「今、あなたから色んな話を聞かせてもらいました。それと同じように島の人達の他愛のない話やちょっとした悩みを聞いてやってほしいのです。古書を売ってはいますがそれは二次的なもので、あなたには彼らの気持ちに寄り添って何か力になってもらいたい。そういう役割を担ってほしいのです」
「いやあ、私なんかにそんなことは…」
無理です、と言おうとして前方の窓越しに島が見えてくるのに気が付いた。
「やってみませんか?」
やはり太くはっきりした老人のその声に押されて、私は頷いていた。
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