或る古書店店主の物語 第六章 真由 作:越水 涼

第六章 真由

 今日から三月。三寒四温とはよく言ったものだが、最近ではもう週に一日寒いと感じる日があるかどうかぐらいになって来た。道を走れば畑の中のそこかしこに、水仙の群生や白い花をつけた野梅や菜の花が目に入る。私は特にこの時期の白い梅の花が好きだ。二月一日の朝、古書店の店主と一緒にいた彼も新しい仕事に慣れて来たように見える。期限付きらしいけれど古書店店主として頑張ってほしいと思う。

 私はあの朝すぐに分かった。名前は思い出すのに一日かかったが、紛れもなくあの人だと。

 最後に彼に遇ってから二十五年くらいになると思う。職場を替えて三度目の職場のある庁舎の入り口でだった。昼休みに喫煙所に来て文庫本を読み缶コーヒーを飲みながら煙草を吸っていると言った。私の顔を覚えていてくれて一言二言立ち話をしたのだった。

 二度目の職場は喫茶店のウエイトレスだった。彼は同じ会社の人と三人で来た。二人の後輩はよく喋り、彼は黙々とランチを食べていた。次に一人で来た時彼は言った。

「この店のランチはボリュームがあってコーヒーも付いてて、七百円で。加えて週刊誌が一杯あるから僕は一番好きなんだよね」

 そう、でも私達スタッフにとってはあの昼の十一時半から一時の怒涛のような時間は本当に体に悪いと思っていたのだ。私は結局、店自体が別の場所に移転することになって辞めてしまったのだった。

 私は今もよく覚えている。最初の職場は長かったし、あの店での経験と記憶は今も私の体の中にしっかり生きている。その記憶の中でも清々しい一つの記憶が河井さんとのことだ。この前話した時にそうだったけれど彼の方はそれ程印象がないみたいだった。

 彼の会社では一部の女子社員が茶華道クラブをやっていて、火曜日の華道の日に私がお花を配達していた。その事務所に彼はいて、私が入っていくと他の事務員さんと同じように「いらっしゃいませ」と言うのだが、毎回ぶっきらぼうに聞こえる。ある時彼しかいなくて、お金のやり取りをする時に初めて話したのだった。意外にも彼はにこにこして、しっかり目を見て話してくれた。彼は入社したばかりで、話したのはちょうど今頃三月だったと思う。

コメント

人気の投稿