或る古書店店主の物語 第七章 真由(二) 作:越水 涼
第七章 真由(二)
一点の曇りもない青空。雲や霞は一つもなく空気は冷たいがきれいな青空だ。それは生まれたばかりの赤ん坊のようだ。と、店に戻ってこの前のことを思い返してみる。先月、二月の半ば彼は初めて来た。お隣さんへの挨拶としては半月経っているのには遅過ぎるとは思ってみたものの、私には彼と話せることが嬉しかった。
「こんにちわ」と彼。
「いらっしゃいませ」と言う私の声は自然に弾んだ。
「隣の新米店主の河井です」
「真由と申します」私は初対面のような挨拶をしてみた。そして続けた。
「河井さん、私のこと覚えてませんか?貴方の会社の近くの花屋にいた…」
うーん、と言ったまま彼は黙った。そして、じっと私の顔を見た後で言った。
「おお、あの真由さんなの?」
「そうよ」私達の間の時間の壁が消えた。
「久しぶり、と言うか、そんな時間じゃないよな。何十年ぶりだもんね」
「ええ。最後に会ったのは計算できないくらい前。河井さんも頭真っ白だもんね。髪があるだけいいか?なんて」
「真由さんもそんなに変わってないね」
「嘘言わなくていいよ。この前、朝会った時、私は直ぐわかったのよ。河井さんは全然気付いてなかった」
「そりゃあ、わからないよ。まさかそんな人がここにいるなんて思いもしないしさ」
「私もびっくり仰天してたよ。何とか我慢したけど」
そして特にあの花屋での数年のことをお互い、遠い記憶を少しずつ手繰り寄せながら話した。
「河井さんは奥さんの誕生日の花束や、結婚記念日の花束を何度か注文してくれたよね。いい旦那さんだなっていつも思ってたよ」
「そうだね。いつもぎりぎりになってしまって、当日の昼休みにお願いして、帰りに取りに行ったんだよね」
「そう。でもお店に初めて来たのは、お客さんだかお葬式の生花の注文だったかな?ある時は店に私しかいなくて、でもその時に色々喋ったんだよね」
「そうだった。会社に入って数か月の頃かな。多分その頃だったと思うんだけど。通勤電車で会って、告白した人に振られたことも話したよね」
「うん。うん。そうだった。すごく真面目な人なんだなって思って聞いてたよ。でも、私が根掘り葉掘り聞いたから仕方なく話してくれたんだよね。思い出した」
「僕のことはまあそれくらいにして。僕には真由さんは元気いっぱいで花屋の仕事が楽しそうに見えたけど、あの頃どうだったの?」
私は河井さんの問いに一息ついてから花屋の店主とのことを話すことにした。
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