或る古書店店主の物語 第十章 沙希(二) 作:越水 涼

第十章 沙希(二)

 その木造の建物の前の松の木に私は自転車を立てかけた。そして、引き戸を開け中へ入った。当てずっぽうに部屋の前の名前を見て行くと、”織衣布古書堂”はすぐにわかった。ドアは開けられていたので入って行く。ほんのりとコーヒの香りが漂っている。私の足音に気付いたのだろう。白髪の男の人が奥の部屋から歩いてきた。

「いらっしゃい」

「こんにちは」私は少しどぎまぎしながら言った。

「何をお探しですか?」

「いえ、こちらのホームページを見て来たんです。実は悩みごとの相談に乗ってもらいたくて」私は少し早口で言った。

「はい。いいですよ。聞きましょうお話。でもその前に少しお待ちくださいね。コーヒーは飲めますか?」と店主。

「はい」と私。

 私は大学に入ってから初めてコーヒーに出合った。それまでは紅茶しか飲んだことがなかったのだが、周りの女子学生達がやはり神戸という土地柄なのか、とてもコーヒーに詳しく彼女らに誘われてかなり頻繁にコーヒー専門店に通ったのだった。

 暫くして戻って来た店主の手に二人分のコーヒーカップがあった。

「どうぞ。お待たせしました。コーヒーはね、まず、その湯気の昇る黒い表面をじっと見て、鼻を近づけて、目を瞑って下さい。そうするときっと落ち着いて、貴女の一番いい気持ちの状態になるんです。そう、朝玄関を出ると真っ青の空から朝陽が降り注いでいて、凛とした空気の中を颯爽と歩いている、そんなイメージに、きっとなります」

 私は、何を言っているんだかこの人。と思いながらも言われた通りに目を瞑った。そして何故だか言われた通りの気持ちになった。不思議だった。

 何秒目を瞑っていただろう?

 すると、店主が言った。

「じゃあ、そろそろ飲みましょうか。きっと美味しいですよ」

 一口飲んでみる。どうして?このコーヒー、こんなの今まで飲んだことないわと、すぐに思った。あんなに飲み歩いたのに、そのどのコーヒーよりも美味しい。こんなことってあるの?それもここは古本屋だというのに…。

「ほんと、美味しいです。今まで私が飲んだ中で一番です」

「そうですか。そりゃあよかった。そんなに言っていただけて光栄です。さて、お悩みごとってどういうことでしょう?話してください。あっ、その前に自己紹介をしますね。私は河井浩二。今年の二月からここで店主をしています。ホームページを見てもらってるんならご存知かな?」

「はい。中々に古いLPありますね?」私は周りの棚を見渡した。

「そうですよ。まあ、前の店主と私の趣味の物ばかりですが」

 そう言いながら店主は、棚から一枚LPを抜き出して、ターンテーブルへそれを静かに置き針を乗せた。小さなボリュームで控えめに音楽が流れる。それはビートルズの”青盤”だった。ストロベリー・フィールズ・フォーエバーが始まった。私が大好きなビートルズ。高校に入った年に父から勧められて聴き始めたビートルズ。不思議だったが、古いのに好きになったのだった。偶然にもそれをこんなところで聴くことになるなんて。何という偶然だろうと思いながら、私は聴き入ってしまった。

「それで、聞かせてもらえますか?」

 店主の声に、やっと私は話し始めた。

「実は私は小学校の教師で、今年初めて担任を持って、子どもに性教育の授業をしなくてはならないんです。でも自信がなくて。私にそんなこと教えられるのかなって。今とても困っているんです」






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