或る古書店店主の物語 第十六章 亜紀(五) 作:越水 涼

 第十六章 亜紀(五)

 私は亜紀が「雨の街を」に聴き入っているのをその表情から感じながら、濃い目のコーヒーを彼女の前に置いた。「ありがとうございます」と言った後も亜紀はコーヒーの上に発つ湯気を見ながらも何か思い詰めるような表情をしていた。”誰か やさしくわたしの 肩を抱いてくれたら どこまでも遠いところへ 歩いてゆけそう”とユーミンの声が彼女の心を揺さぶっているようだ。

「コーヒーはよく飲むのかな?」 

「ええ、好きですよ。とっても美味しいです。店主さんプロ級です。彼と行った喫茶店のマスターが淹れたのに目覚めちゃったんです。それまでは殆どコーヒーは飲んだことなかったのに」

「ああ、雨の日に行った喫茶店だね?あの手紙に書いてあった」

「はい、そうです。ほんと、恥ずかしいです。あの手紙が関係ない人に読まれるなんて想定してないから。私がいけないんですけど。でもむしろそのほうがよかったかも。店主さんがもうあの手紙から想像して、私へのいいアドバイス何か考えてもらってるんですよね?」

「そうだね。何もないよりはね。でもあそこに書いてあったのはほんの一部のことだろうし、人の気持ちなんて時間が経てばどんどん変わっていくから。きっと貴方の気持ちも別れてから少しずつ変わってるんじゃない?彼のことを嫌いにはなっていないんだろうけど、何であの時はあんなに好きだったんだろうとか、あの時の気持ちがどんどん薄れてるんじゃない?」私はちょっと残酷かなと思いながらも思うところを話した。

「はい。そうかもしれません」

「でも、彼がそばにいてくれた一年はきっと貴方にとって今のところ一番輝いていたんだろうし、いや少なくともあの手紙からは私はそう感じたからさ」

「そうなんです。いつも、この子とずっと、夜景を見に行ったり、山歩きしたり、お花を見に行ったり、ラーメン食べ歩きしたりできたらって思ってました。あの子は私のリクエストに大抵応えてくれて、私の都合にも合わせてくれたし、私の作ったお弁当も美味しいって言ってくれたんです。勿論お互いの誕生日もお祝いしたのに。お給料まだそんなにもらってないと思うんですけど、私の町で一番の高級焼き肉店にも連れって行ってくれて。私も食べることは好きで遠慮せずに食べてました。ほんと美味しいんですよ」

「ああ、あの店ね。名前は知ってるよ。残念ながら僕は行ったことないんだよね」

「揖斐川の上流にある山に行った時、足を私挫いてしまって、その時彼、私をおんぶして景色のいいところまで連れて行ってくれたんですよ」

「ええっ、春日の”天空の茶畑”のこと?すごいね、彼」

 普通なら無理だろう、私も一度登ったことがあるのだが彼もやるなあと思った。その亜紀の、そんな彼との色んな思い出を話す顔はとても綺麗だった。さて私は何を言ってやればいいのか。そう思っていると短い「ひこうき雲」が終わった。

「ここにいても話が膨らまないから、どこか行こうか?亜紀さん、昨日は島の中回っていないんだよね?」

「ええ、フェリーの時間が遅かったのでホテルに泊まっただけで」

「よし。じゃあ今から行こう。私も一度行ってみたかった場所があるんだ」

 私は彼女を島でも一番の人気の場所へ連れ出すことにした。



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