或る古書店店主の物語 第十八章 亜紀(七) 作:越水 涼

 第十八章 亜紀(七)

  眼下に拡がる穏やかな海と一時延びる奇跡の砂浜を見ながら私は店主に話しかけた。

「階段、えらくなかったですか?」

「うん、実はかなりえらかったよ。今も足が震えてるよ」店主は苦笑いしながら自分の膝のあたりを叩いた。そして言った。

「恋って難しいよね。僕も何十年も昔、毎日のように悩んでたよ。自分が思ってることを全部声に出せるわけじゃないしね。それで相手に何か伝えようと思っても全然言葉が足りなくてね。だから、その時々君が思ったままに生きればいいんだ。自分自身が一番心地いい、自然な気持ちでいられることが幸せなんだし。でも恋愛って相手がいるわけだし、自分の思うようには行かないことの方が多いよね。そういうもんさ」

「ええ、そうですね」

「恋の悩みはちゃんと聞いてくれる、誰か傍にいる人、兄弟とか、友達とか先輩とか、同僚とかに話せればいいし。好きな音楽のメロディーや歌詞で気持ちが整えばいいし。映画やテレビドラマのセリフや表情やストーリーに何か心に響くこともあるかもしれないしさ。僕なんか結構あるんだよね。好きな歌手の力強い歌の歌詞に励まされたりさ」

「ええ、そういうこと私もあります」

「でも励まされても、結局次の行動を起こせるかどうかは自分次第なんだよね。亜紀さんが彼との別れで傷ついて次の一歩を踏み出せるかは、やっぱり君の気持ちがどこまで強いかにかかってると思う」

「私、本当に好きだったんです。やっぱり顔と声って私のど真ん中だったし。私から言う前に彼から付き合ってって言ってくれたし。私のリクエストを大事にしてくれたし。でも、やっぱり一番大事なのって、話が合うかなんですよね。何か違うってある時期から感じるようになってしまって。まず彼の答えがあってそれに私が合わせるようにさせようとするっていうか。ちょっと抽象的ですけど、対等じゃないっていうか…。私に対してだけじゃなくって誰に対してもそうだって、本人は言ってましたけど。それにもうついていけないなって思って。彼が年下の分、引っ張って行く男になろうとしてたのかもしれませんけど。それが何か自分本位にしか見えなくて。そんなところが変わってくれない以上もういやだって思って。これからのことをどうしても考えてしまって」私は一気に自分の思って来たことを言葉にした。

「なるほど。亜紀さん。それだけ言葉にできるんならこれから何でもできるよ。きっと新しい恋も捉まえられるだろうし。その元カレを見返してやればいいさ」

                   ×××

 店主と別れて帰りのフェリーに乗った。港から離れ、日が落ちて島の影も輪郭しか見えなくなって行く。その時、目の前に大きな花火が上がった。間をおいて”ドーン”という大きな音がする。そして次から次へと矢継ぎ早に色んな種類の花火が上がった。まるでこれからの私を応援してくれているみたいだ。
 大きな花火を見ながら私は店主の言葉を思い出して私なりに解釈してみた。夜明けの雨粒につかまって降りて来る妖精や夜明けの街のあかりを消していく魔法使いがいるとすれば、それは自分の心の中にいるんだ。自分がそう思いさえすればやさしく抱いてくれる誰か、何かはいつも傍にいる。この空に大きく広がる花火もそう。私の塞いだ心を消し去り昂らせてくれる。ユーミンの曲も固く閉ざした私の心を優しくしてくれる。私の恋の悩みをいつも聞いてくれた会社のあの人もそう。あの人がただ聞いてくれるだけで救われた気がした。きっと私は一人じゃないんだ。助けてくれる人も歌も映画も小説も記憶も私にはある。

 花火を見ながらふっと思い出したことがある。そうあの人が読んだ小説から紹介してくれたセリフ。今読んでる小説のセリフなんだけどねって言って紹介してくれた。『人生、しんどいことだって起こるけど、もし雨が降らなかったら、そのあとにあんなきれいな虹が架かることもないのよ』(村山由佳著 ありふれた愛じゃない より引用)

 私の人生、きっとどこまでも遠くへ歩いて行ける。きっとだ。まずは一歩を踏み出そうと思った。島の輪郭さえ見えなくなって、最後の花火の余韻に浸りながら私はいつまでもその藍色の空とそこに瞬く無数の星を見ていた。聞こえるのはフェリーのエンジン音だけだった。

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