新しい太陽と小さな幸せ 第一話 作:越水 涼

 新しい太陽と小さな幸せ 第一話 作:越水 涼

 今となっては古いコトバだが、私たちの新婚時代は”アパート”で始まった。洋間、和室、ダイニングキッチン、風呂、トイレがある古いアパート。建物の横に付けられた階段の昇り降りの振動が部屋に伝わるようなアパートだ。そのアパートから歩いて十分程のところに、その寿司屋はあった。「寿司×」と屋根の下に看板が貼ってあったと思う。妻にも聞いたが「×」が何だったかは思い出せない。大将の名前から付けられたのだろうが、肝心のところを忘れている。実は今でも通勤時、毎朝その民家となっている横を通っている。信号待ちの度にその二十五年も前のことを思い出す時がある。

 新婚時代、子どもが生まれるまでは妻も働いていた。時々、主に仕事の愚痴を言い合うために「寿司×」の寿司を食べに行った。なぜその店に行くようになったかの正確な記憶はないが、買い物に行っていた「アピタ」の前にあったから行ってみようかとなったのだろう。カウンターに数席と座敷に四組程座れたと思う。大将と奥さんと若い衆一人でやっている店だった。私達どちらからともなく「寿司食べたいね」と言っては、会社帰りかアパートから二人散歩がてら時々訪れた。黄土色の木の引き戸を開けると「いらっしゃいませ-」という少し濁声ぎみの大将の大きな声がかかるのだ。こちらも「こんばんわ」と言って入って行く。共働きとは言え、薄給の私達はいつも”並”を注文した。そして瓶ビール。瓶ビールをグラスに注ぎ合って、木の桶に入った寿司をつまむ。”並”だから玉子、マグロ、イカ、エビ、タコ、キュウリ、鉄火巻、穴子くらいだったと思う。それにワカメと麩としじみの濃い赤だしの味は今でも忘れられない。いつも最初は寿司を味わいながらも、段々と会社での話になって行く。

「ちょっと聞いてくれる?」

「何?」

「××ちゃんが○○課で、△△君と三十分もお喋りしとるんやよ。どう思う~?」

「何か必要やったんやない?」

「ううん、あれは違うよ。××ちゃんが△△君のこと好きなんやて。絶対そうやて」

「そんなら応援したればいいんじゃないの?」

「……。そうかなあ」

 時には会社の方針に対してのことや、同僚のこと、課長のこと、決まりを守ってくれない営業マンのことなどを話した。今思えば、お互いにそこで日々の小さなストレスを発散していたのかもしれない。何にしましょう?と聞いてくれる大将の声や、カウンターの内側で小刻みにカタカタと下駄の音をたてて寿司を握る大将の姿が今でも記憶に残っている。 

 ある時店に行ってみると閉まっている。その後も時々見に行ったが閉まっていた。そしてその後駐車場の入り口だったところに生垣が作られ、店の看板も取られていた。引退するには大将はまだまだ若く見えたし、店を閉めた理由を知る由もない。実は私が「回転寿司」でない寿司屋に入ったことはこれ以来ない。二人で行ったこの寿司屋での時間は、まだ子どものことや、親のことより自分達のことだけを考えていればよかった新婚時代の大切な記憶になっている。


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