或る古書店店主の物語 第十九章 加奈(一) 作:越水 涼

 第十九章 加奈(一) 

 私はたまに思い出したように朝風呂に入ることがある。今日がその日で、風呂場の窓を開けて、初秋の快晴の早朝、心地よい風呂に浸かっている。この数日ぱったりとエアコンを使うこともなくなり朝はむしろ肌寒く感じる。季節の移ろいはこんなにも早いのだ。そんな朝、朝風呂はとても気持ちいい。

 目を瞑り、腕組みをするとやはり家族のことを想う。妻とは八月になってやっと電話で喋ったものの娘二人とは、冬の定年の朝に「行ってきます」「行ってらっしゃい」の会話以来一度も喋っていない。馬鹿な父親だと自分でも思う。今のままではいけないと分かっていても合わせる顔がない。私の身勝手で家族を捨てたのだから。確固とした理由もなく家庭を放棄した。しかし、時々二人の娘は夢に現れる。

 初めて「パパ」と呼んでくれた長女の顔。祖母の手作りのちゃんちゃんこを着た、少しくせ毛のある子どもは、私が笑って手を握ると、もう一度「パパ」と言う。何度も何度もそれを私は繰り返す。毎晩、私の膝の上に背中を乗せてシャンプーをしてやる時に目に泡が入らないよう目をぎゅっと瞑る次女。忘れるわけがない。世界で一番大切なもの。子どもたち。とっくに成人して社会に出たけれど、いつも想っている。決まってるじゃないか。

 目を開けて湯舟の中で立ち上がる。簡単に全身を拭いて風呂場を出た。今朝は特に濃いコーヒーを淹れよう。今日も何かいいことがあることを信じて。そうだ。九月、十月は昔から私が一番好きな季節だ。暑くもなく、寒くもなく。会社勤めの頃は春は仕事が忙しい時期でそうなると、この秋がどうしても一番好きな季節になってしまった。

 古本と古いLPしかないこの部屋の窓から見える西の空にうっすらと白い月が見えた。あの子たちは空を見上げるくらいの余裕をもって生きているだろうか?


コメント

人気の投稿