或る古書店店主の物語 第二十一章 加奈(三) 作:越水 涼

 第二十一章 加奈(三) 

 コーヒーを飲み乍ら私達は大昔の思い出話をした。だがそれらが完全にその時の出来事通りかどうかは曖昧だった。今日の場合そんなことはどうでもいいことだった。今は大体のことを言い合って笑えればそれでよかった。

「加奈さんが入社した年は個人的にも社会的にも色々あったなあ」

「そうでしたっけ?」

「うん。その年は夏に妻にプロポーズして年末近くに結婚したんだよね。加奈さん達にもお祝い頂いたよね。その節はありがとう」

「そうでしたっけね」

「それと、その年一月早々に阪神・淡路大震災が起きたり、例の団体がとんでもない事件を起こしたりした年なんだけど、そういうことが僕の気持ちの中で、やっぱり今思えばその年結婚をすることに決めたことにもなった気がするなあ」

「へえそうなんですね」

「なんか、もう何年も付き合って来て、大事な人のすぐそばにいて世の中に起こるいいことも悪いことも一緒に感じたいって言うかさ。もちろん会社では一緒に過ごしてるんだけど、もっとさ、眠ってる時間以外全部一緒にいたいって思ったんだよね」

 ちょっとキザな言い方だなと思いながらも、言った。

「すごいですね。そこまでは私は考えなかったですけどその年」

「僕はそうだったなあ。まあ、今では不思議だけどね。何であの頃はそこまで思えたのかってね。若かったからかなあとしか思えないけどね。どっちが本当の自分かわからないよね。情熱的な自分とどうでもいいやって思う自分と」

「それは誰でもそうじゃないですか?私もあの頃自分が周りから陰でどう言われてたか知ってますよ」

「えっ。それって?」

「私が他に恋人がいるのにYさんとも付き合ってるとかって噂があったことですよ」

「ああ。僕も君が辞めてから聞いた。その話」

 彼女が退職してからの社員旅行で、夜皆と話している時話の流れで彼女の”恋多き女”みたいな話が出たのだった。私は単に噂話だとは思って聞いていたのだが。気になった記憶はある。

「でもそれ、違いますよ。私って高校の頃からよく誤解されてて。男の子に対して何かやってあげたくなるっていうか。性格なんですよね。弟がいるからかなって自分では思ってるんですけど。年上であろうが年下であろうが、何か声かけちゃうんですよ」

「うん、なるほどね。その大きな目で見つめられて優しくされたら、男も誤解しちゃうかもね」

「そうなんですよ。それを見たよく思わない先輩が勝手に言ってたんですよね。あの頃」

 この子はいつも明るかったけれど、自分の性格に悩んでいたのかもしれないなと思った。

「あっ、そうだ。今思い出したんだけど、加奈さんに最後に会ったのって、あの長良川の花火大会の日だよね?」

「えーと…」

「北方町のさ、コロポックルで僕は奥さんと来ていてさ、カウンターでコーヒー飲んでるところへ加奈さんが旦那さんと入って来てさ」

「ええ、そうでした。そうでした」

「あの店はドアが木で厚いから、絶対入って来た客の方を見ちゃうんだよね。そしたら加奈さんだったからびっくりしたよ」

「そう、偶然でしたよね」

「僕も妻もあの店をすごく気に入っててさ、毎週のように行ってたんだよね。やっぱりあの目の前で入れてくれる炭焼きコーヒーの香りはよかったなあ。棚に並んでるコーヒーカップを選ばせてくれてさ、白い綿シャツ着た店員さんが手際よく真剣に淹れてくれるコーヒーが美味しかったよなあ」

「そうですね。私もよく行ってました。家から近かったし」

「そっか。あの日もすごく運がよくって、加奈さん達が座った席の窓の遠く向こうに何か動く物があるなって、角度的にそこしか見えないんだけど、遠くの花火がスローモーションで見えたんだよね。あれだけ遠いとあんなにゆっくりに見えるんだね。当然音は聞こえないんだけど、何かサイレント映画でも見ているようで不思議な感じだったなあ」

「ええ」

 加奈は私の話を聞きながらも、何か言い出そうとしているのにやっと気づいた私は聞いた。

「ああ、ごめんごめん。僕ばかり話しちゃって。ところで、今日はここへ来ることだけが目的ってわけじゃないんだよね?」

「はい。実は私も色々あって、今は小学校の教師をしてるんですよ」

「ええっ、そうなの。びっくりしたあ」

 この後加奈は身の上話をしたのだった。結婚生活は二年で終わり、元々持っていた教師になる夢を叶えようと大学に入り直して小学校の教師になったと。それも、気持ちを変えるために縁もゆかりもない大阪で。そして今日はこの島への遠足の下見なのだと言った。遠足の行き先が決まった後に偶然私の店のホームページを見つけて来たのだと言うのだ。

「もう二十年です。ベテランですよ」

「うん。頑張ったねえ」

 私は二杯目のコーヒーを淹れるために立ち上った。


コメント

人気の投稿