新しい太陽と小さな幸せ 第五話(後編) 作:越水 涼

 新しい太陽と小さな幸せ 第五話(後編) 作:越水 涼

 もう一度よく思い出してみると、彼に初めて会ったのは私が大学四年の春。彼が新入生で入部希望でサークル室のドアをノックしたのだった。他のサークルと違ってほとんど宣伝も勧誘もしない私のミニコミ誌サークルに自分から来たのだった。結局その年入ったのは彼の他二人だった。

 お互い講義の終わった夕方のある日、彼を晩飯に誘った。一時間半かけて通っている彼は私の急な誘いに快く了解してくれた。新入部員の歓迎会は近いうちにやるつもりだったが、まずはサシで彼と話したかったのだ。

 学生相手のその定食屋はがらがらだった。若い学生でも三百円で満腹になる店だった。天井からぶら下がっているテレビは”チケットぴあ”がコンピュータを使ったサービスを始めたと特集していた。

「今日はおごるからさ。何にする?」

「いいんですか?それじゃあ、焼肉定食にします」

「俺は魚フライ定食にするかな」

 私は店の入り口近くの厨房にいるであろう旦那と喋っているおばさんを呼んだ。

「すみませーん」と私。

「焼肉と魚フライとビールお願いします」

「はいよ」

 どうしたらそうなるのか、ちりちりパーマのおばさんは返事をして厨房へ入って行く。

 程なく、キリンラガーとコップが二つ置かれる。私は山田と自分のコップにビールをどぼどぼ注いだ。

「じゃ、山田君の入部を祝って乾杯!」

「ありがとうございます。乾杯!」

 にこっとただでさえ細い目を細くして彼は笑い、ビールを一口、二口と飲んだ。私は注文した物が来るまでの間煙草を吸った。当時の私は一日ひと箱吸っていた。二百円のマイルドセブン。

「山田は煙草吸わないんだよね?」

「はい。今まで吸ったことないです」

「一本吸う?」

「僕は絶対吸わないです。絶対体に悪いですから。何をするにも健康が一番ですから」

 彼の言うことはもっともだった。だが、当時の私は、健康なんて考えもせず、煙草のけむりの中パチンコ屋に入りびたり、仕送りを全部使ってしまう生活を送っていた。たまに勝った時だけ今日山田が頼んだ「焼肉定食」を食べビールを飲んでいたのだった。自分が何をしたいのか、何者にもなっていない自分に嫌気がさしていた。そんな時に彼と会ったのだ。

 目と口元を見て話す。そして同時に聞く。それによって分かり合うことができる。それがそれまで私が学んでいた唯一のことだった。そのうち注文した定食が来て、空腹だった私達二人とも一気に平らげた。赤だしも漬物も、添えてあるキャベツの千切りもトマト一切れも、美味かった。

「僕は学生のためと言うより、何にも考えていない、考えようとしない学生のここに響く記事と文章を書いて載せたいんです」と、山田は自分の心臓のところを叩いて言った。

「うん」

「河井さんがこの前提案した、大学近辺の喫茶店を回って取材して紹介するなんてこと必要ですか?」

 山田はこの前の編集会議で私が出した案のことを言っているのだった。

「そんなの行きたい人が自分で探せばいいんですよ。いちいち紹介しなくても。もっと、大学の中の色んな問題や世の中の矛盾に目を向けさせるような、具体的にはまだわかりませんけど。そういう硬派のミニコミ誌が作りたいんです」

「なるほどなあ」

 その後二年私は彼と一緒にああでもないこうでもないと話し合いながらミニコミ誌を作って行った。そしてあれから三十数年、いちいち編集会議をやって何を載せたいか話し合わなくても、思った五分後に世界中に自分の言葉を提示できる時代が来るなんて思いもしなかった。意見だなんて言えないような、どうでもいい情報が九十九パーセントだったとしても。

「ペンは剣よりも強し」なんていうコトバは本当に死語になってしまったのだろうか。なあ山田、会って話したいよ。今日もこの新しい太陽見てる?この歳になったら、やっぱりお前が言っていた「健康第一」だよ。


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