或る古書店店主の物語 第二十五章 田中(二) 作:越水 涼

 第二十五章 田中(二)

「どうぞ、入ってくれ」

「はい」

 私は田中を奥のテーブルの椅子に座らせ、コーヒーを淹れにかかった。実は最近一か月もの間一切掃除をしていなかった。

「汚いところだけどごめんな」と言う。

「いえ」と田中。

「そうだ、音楽は何がいい?」

「そうですね。何でもいいですけど。じゃあ、せっかくなんで河井さんが好きだった”ハマショー”にしますか?」

「おお、いいねえ。わかった」

 私は久しく聴いていなかった”ハマショー”の『J.BOY』のCDをセットした。

 コーヒーを田中の前に置き、私も彼の向かいに座る。何年ぶりだろう、しばらくお互いの顔を凝視してこの場に合う言葉を探す。二人とりあえずコーヒーを一口啜って彼のほうが話し始めた。

「実はご自宅に電話したんです。そしたら、こちらにいるって聞いたから思い切って来てみたんです」

「そうだったのか。でも何で会いたいって思ってくれたの?」

「ええ、今から三年前に何年かぶりで年賀状を出したじゃないですか僕」

「ああそうだったなあ」

「それで河井さんからも返事もらって。ブログやってるって書いてあったからその後も時々見てたんですよ」

「うん、ありがと」

「会って話したいってすごく思ったんですけど、あの頃はまだコロナが大変で。まあ今も収束したわけじゃないですけど、あの頃は家族以外には極力接しないようにしてたんですね。たいていの人はそうしてたと思うんですけど。それが今やっと、もういいでしょうって風潮になったから来てみたっていうことです」

「そっか。ありがとう。うれしいよ」

 私はそんな相手にこの私を選んでくれた田中に言った。

 そして、最初はお互いの近況を話した。田中の七人の子ども達は皆就職し、今は奥さんと楽しくやっていると言った。孫もいるといった。七人もいれば色々で、役所に入った子もいれば、中学の先生、俳優のマネージャー、漁師、大工などだと言う。私も忘れた頃にお客が来て、話しをするのが面白い、住めば都だとこの一年のことをかいつまんで話した。

 CDは”もうひとつの土曜日”が始まった。

「じゃあ、大学の時の話でもするか?」

「ええ、僕もそのつもりで来たんで」

『J.BOY』を聴くたびに思い出す。私が生ぬるい気持ちでいた学生時代、最後の大学祭の模擬店でありとあらゆるサークルがラジカセでかけて構内に響き渡っていた『J.BOY』。9月に発売されたばかりだった。その時の私は極度に孤独だったのだ。






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