或る古書店店主の物語 第二十九章 弘子(一) 作:越水 涼

 第二十九章 弘子(一)

ーおはようございまーす。

ーおはようございまーす。

 遠くで確かに誰かの声がする。明け方まで店のブログを書いていた河井浩二は、その重い瞼を無理矢理に開けてしぶしぶ起き上がった。六畳の寝室の壁時計を見上げると、既に十時を回っている。ここ数年は大抵夜十時前に寝て四時に一旦トイレに起きるのが常だった。二度寝をしても六時には起きていた。

「おはようございまーす」

 再び声がして、今度は強めのノックも加わった。

 浩二は取りあえず服装だけは人前に出てもいいように着替えて、顔は洗わずに店の入口へ向かった。そして、「はーい」と言いながらドアを開け放った。そこに立っていたのは自分と同年代と見える女性だった。今や多くの女性が髪を染める中、女はロングの白髪だった。

「おはようございます」女はまた言った。

「おはようございます」と言いながら、すぐと浩二は目の前の女、それが誰なのかを認識した。

「お久しぶり。元気そう」

「……」浩二はきょとんとしたまま黙っている。

「私。ヒロコ。タジマヒロコ」

 違う。分かっている。すぐ分かった。田島弘子。ずっと昔に大切だった人だ。或る地方都市の大学で浩二が三年、弘子が一年の時に出会った。そして偶然にも何年か前に、名古屋駅の前で会った。その後には一度連絡を取って金沢で会ったのだった。それ以来だ。

「ああ、びっくりした。どうして?」

「どうしてって。会いたくなったから来たのよ。前会った時にブログやってるって聞いたからさ。よく見てるのよ。そこから浩二さんのお店のホームページも見つけてね。来ちゃった」

「ああ、そういうことか。相変わらず行動的だな。弘子は」

 弘子は前に会った時にはスマホを使いこなしていた。確か仕事でもパソコンやスマホは使っていると言っていた。それに比べ浩二はガラケーが物理的に使えなくなる二ヶ月前にやっとスマホに替えた位だ。ただブログは自己流で何とかやっている。

「あっ、ごめん。立ち話じゃだめだな。まあ入ってよ」

 ようやく浩二は店のドアを開けて弘子を入らせる。浩二が古書店店主になって丸二年が経った初夏のことである。


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