或る古書店店主の物語 第三十五章 弘子(七) 作:越水 涼

 第三十五章 弘子(七) 作:越水 涼

 風車の横には全面ガラス張りのコンクリート打ちっぱなしのレストランがあった。ふたりはそこに入った。そしてアイスコーヒーとサンドイッチを注文した。ふたりは横に並んで座り、ガラス越しに瀬戸内海のきらめく穏やかな藍に見入った。

「ねえ、浩二さん。あの夜のこと憶えてるよね?あなたの狭い部屋に泊まったの。私はあの頃浩二さんのこと大好きだったから…」

 浩二は一口、コーヒーを飲む。

「大好きだったのわかってたよね?私だって勇気出して行ったのに。さみしかった。寝たふりしてたけど朝まで眠れなかった」

「うん。気付いてたよ。でも俺もまだそんな勇気なくってさ。自分に覚悟っていうかさ、なかったから。それは本当には好きじゃないってことなんだと思う。でもあの後も段々大人になって行ったつもりなんだけどね」

「まあ少しは。でも二人とも色んなことに忙しくなってちゃんと話す時間がなかったのよね。でも違うよ。そんなことじゃなくって、若すぎたから考え過ぎちゃったのね。頭が先に来ちゃって。好きなら抱き合えばよかったのにね」

「おい、おい、言うねえ」と浩二。

 弘子もやっと一口、コーヒーを飲んだ。

「ほんとはね、今日、ちゃんと別れようと思って来たのね私。でもやっぱりやめとくね。私たち誰も生きていくのに迷子にならない確信があるわけじゃなし、毎日何かしら嫌なことってあると思うの。でも何か素敵な楽しいこともきっとある。いい人にもきっと会える。誰か助けてくれる。そう思って明日も世界へ出かけて行けるんじゃないかな。私は思うのよ。今言ったことって、別に今の本当のことじゃなくてもいいの。過去の記憶でもいいのね。目を瞑ればあなたとの何十年も前の楽しいことの記憶が蘇って、今の私を助けてくれる。あなた言ったよね。最初から完璧な人間なんかいないし、昨日の自分よりほんの一ミリ成長したいって思い続ければいいんだって」

「そうだっけ?そんなこと言ったかな」

「うん、そうよ。結構浩二さん色々教えてくれたのよ。ちょっとした昔の言葉や笑顔を思い出すことで何とか踏ん張れるの、そうやって自分の弱さとしっかり向き合って他人と競い合うんじゃなくって自分自身と戦い続けるの。だから、ある意味”戦友”の浩二さんと別れるなんてないの。夢の中でも、記憶の中でもいつでも会おうよ」

 ふたりはどちらからともなく、顔を横に向け見つめあって、そして笑った。



コメント

人気の投稿