ある夏の体験「還」 作:越水 涼

 ある夏の体験「還」 作:越水 涼

 いよいよ明日ここを出る。最初から五泊六日の予定で毎日の健康観察の値が問題なければ帰宅することになっていた。しかし未だに、私がどこから来たのかどうこの部屋まで来たのかが思い出せないでいた。明日の朝、目を覚ませば何か思い出せるだろうか。

 節電のため暑くなるまでエアコンは使わず、照明もこの机の上の一か所だけにしている。この照明の下の鏡に映る私の顔には髭が伸び、床屋へ行きそびれた髪もぼさぼさしている。

 とは言えこの空間であった出来事は今後永遠に私の記憶に刻まれた。

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 少しだけ開けておいたカーテン越しに朝の光を感じた。すぐに起きることはなく私はまどろみの中にいた。耳元でケータイが振動する。メールが来ていた。○○子。私は頭の記憶を巡らす。○○子。○○子…。妹だ。〈おはようございます 土曜日午前中にお墓参りに行って、家の方にも寄ろうと思いますが、都合はどうですか〉そして私は全てを思い出した。

 昼食の弁当を食べ、部屋と浴室の掃除をした。もうすぐ妻が迎えに来る。私はやっと世界へと”生還”するのだ。この六日間何度も見た外の風景。最後に窓の傍に立って見てみる。どんよりとした空が見えた。四角い大きな煙突の焼却場。整然と並ぶ建売住宅。工場の外に並ぶ作業車。草むらの向こうに延びる川の流れ。空を飛ぶ鳥たちの群れ。そこには自然があり人々の生活がある。私は再び、強くなってこの世界へ戻って行く。

 廊下から足音が聞こえる。私の部屋の前でそれは止まった。「コン、コン、コン」とノックの音。私は幾分軽くなった旅行鞄を肩にかけてドアを引く。そして、大きな一歩を踏み出した。

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