或る古書店店主の物語 第四十一章 恵子(四) 作:越水 涼

 第四十一章 恵子(四) 作:越水 涼

 部屋に入ってすぐにわたしの目に入ってきたのは、本棚のおびただしい数の本とLPレコードとCDだった。ぎゅうぎゅうで所狭しと並んでいる。そして鼻には香ばしいコーヒーの匂いが突き刺さった。

「いい匂いするね」とわたしが言うと、河井君は振り向いて大きくうなずいた。

「もう四十五年くらいかなあ、コーヒーを飲みだしてから」

「大学時代からだったらそうだよね?」

「うん。同じ下宿の先輩が目の前で挽いて、淹れてくれたコーヒーが凄く美味くてさあ」

「へえそうなんだ」河井君は昔を思い出しながら話してくれる。

「煙草は途中でやめたから、僕の人生の中でそれこそ誰よりも何よりも長い付き合いだよね、そう考えたら」

「そうね」

「あ、座ってね。今、コーヒー淹れるから」そう言って河井君は遮られた奥の部屋へ入って行った。

 わたしは再び本棚を眺めてみる。”中島みゆき” ”浜田省吾” ”松任谷由実” ”オフコース” ”さだまさし”… どれもわたしには無縁な人達だ。名前はもちろん知っているがそれだけだ。テレビの主題歌になった歌ぐらいしか知らない。河井君の趣味なんて何も知らなかったな。偶然がなければここへも来ることはなかったんだ。たまたま娘が孫を連れて遊びに来ていて寝てしまったから、やることがなくなって見ていたスマホに出た記事を読んだのだった。「瀬戸内の小さな島で生きる古書店店主の日常」その店主の顔が彼だった。その時のわたしは不思議だがすぐにわかったのだ。何十年も会っていないのに。

「お待たせ」河井君がコーヒーを持って来た。


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