私はいつまでもあなたと歩きたかった 第四章 回想(二) 作:越水 涼

第四章 回想(二)

 七月の最終日、前期試験が終わった。私にとっては大学での初めての大きな試験。講義にはしっかり出席していたから特に問題なく終わった。と同時にこの日、全国的に遅い梅雨明けとなった。これから本格的な夏の暑い日射しが襲って来そうだ。四時には最後の試験が終わり、このまま帰ろうかどうしようか迷った挙句、BOXに行くことにした。誰かいるかも、否いてほしいと思い乍ら、二号館を出た私は、むっとする空気とあちらこちらから聞こえる油蝉の合唱に取り囲まれた。
 ”自由・受難の鐘”の前を通り、図書館の前を通り、学生会館の中を通り抜け、サークル棟へと足早に向かった。部屋の鍵は部員全員が持っていたが、私は誰もいないドアを開けるのは厭だった。ドアのすりガラスから明かりが見えたほうが私は浮き浮きした。誰でもいい。同じ年代の友達と話す時間こそが、その頃の私の至福の時間だった。今日のお弁当のこと、小説の話、流行りの歌の話、通学の電車の中での出来事、構内を歩いていた猫の話…何でもよかった。中には面白い講義もあるにはあったが、BOXでの時間が何より楽しかったのだ。
 一応、ノックはする。返事を待つことなくドアを開けた。平机の一番奥に、浩二が足を机に投げ出し、煙草を吸い乍ら何やら文庫本を読んでいる。おう、と右手を挙げる彼は私の顔を見ることもなくそれを読み続けた。
「あっ、こんにちは」
「おう」
 結局、彼の歓迎会をする間もなく前期試験になり、夏休みが始まってしまい、私たちは会話らしい会話をまだしていなかった。
「あの、窓開けてもいいですか?」
「いいよ。ごめん、田島さんは煙草嫌いか?」
 やっと文庫本から目を離して、私のことを田島さんと呼ぶ彼。
「そうですよ。大抵の女子は煙草なんか嫌いです」
「なら、一本吸ってみる?」
 まさかの言葉が彼の口から出る。
「河井さん、今、私が言ったこと聞いてました?煙草は嫌いです」
「そう?」
「その、匂いがまず厭だし、何が美味しいんですか?」
「そうだな、煙草を吸うと大人になれるじゃんねえ」
 違う、大人になった気になってるだけじゃないのと思いながら彼の言い分を聞いた。
「大抵の有名な文学作品には煙草が出てくるよ。それと、何かの本で煙草は昔、薬だったって書いてあったよ」
「分かりましたけど、とにかく窓開けますね」
 そう言い乍ら、私は彼のいる奥の窓を開けた。外で練習をしている軽音楽部のギターの音やら、演劇研究会の発声練習の声やらが一段と大きく部屋まで聞こえてきた。

「そう言えばさあ、呼び方なんだけど」
「はい?」
「苗字じゃなくって、別のにしない?」
「はあ」
「苗字だと何か、他人みたいじゃない?下の名前で呼ぼうよ」
 何、この人。普通、苗字でしょと思いつつも、
「浩二さんでいいですか」
「そう、そう。浩二君でもいいけどね」
「君はおかしいですよ」
「じゃあ、僕は弘子って呼ばせてもらうね」
 何で、いきなり呼び捨てなのと思いながらも、私はすごく彼に近づいた気がした。

 夏休みはどう過ごすのかとか、家から大学までどれだけ時間がかかるのかとか、誕生日はいつか、好きな作家は誰か、食べ物は何が好きか、山と海とどっちが好きかなどということを散々聞いてきた。少しお近づきが早過ぎないかと思いつつも、多分初めて彼に会った時から好きになっていた私は、それでよかった。彼が遠慮なく聞いてくることに答えるのは楽しい時間だった。
 彼からは、夏休みはほぼ毎日アルバイトに行くことと、五木寛之が好きだということが聞けた。いつの間にか、壁の時計の針は五時を回っていた。
 と彼が突然言う。
「今から、海に行かない?」
「えっ、今からですか。水着なんか持ってないですよ」
 てっきり、海に泳ぎに行くと思った私は大声を出した。
「違うよ。海を見に行こまい。海と、砂浜と、夕焼け。見たくない?」
 返事に困っている私にお構いなしに彼は、そそくさと立ち上がり、さあ、さあと私を追い立てたのだった。こうして、私たちはBOXを出て、門からすぐの大学前駅から南へ向かう電車に乗った。
 しかし、こんなこといつから考えていたんだろう。まさか、今日私が現れるってわかっていたの?私は、彼の横顔を盗み見乍ら思いを巡らせていた。           




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