エッセイ//私の道草日記 其の22 越水 涼

 2021.5.30

  何年か振りにこのメンバーで映画を観に来ました。メンバーとは私と妻と下の娘です。各務原イオンの中のイオンシネマです。例のごとく、私が観たい映画は二人は興味がないので、二人が観に行って三十分後私は一人、待合のソファーを立ちました。

 コロナ下の世界ももう一年以上になります。本来人間が人間であるゆえんでもある、共通の目的を持った人びとが、その同じ場所に、同じ時間に一挙に集まって来るということ自体を否定される今。その中にあっても家から一時間かけてここに私たちは来ました。もうすぐ来る季節に着る物を探すという目的で、観たい映画を観るという目的で。それは正に必要なことだからです。

 こっちの店、あっちの店と映画の前に一時間。映画の後に二時間くらいかかったでしょうか、妻と娘は気に入ったその服を明日、会社や大学へ着て行くのです。そして、「○○ちゃん、その服似合ってるよ。すごくかわいい」と言われればうれしくなるでしょう。

 さて、私が観たのは、名古屋が舞台の『名も無い日』という作品です。二年ほど前に一人で訪ねた「円頓寺商店街」も出てくることと、出演の俳優陣を見てぜひ見たいと思ったのです。詳しくはここでは書きませんが、感動しました。”名も無い日”は主人公の弟の”命日”がこの日だと確定できないという日を言っているのです。ですが、私はそれとは別の意味を思いました。彼と彼と関りを持ったすべての人との、一日一日を指しているのだと。彼が発見された時にも、昔まだ家族が一緒に生活していた時と同じように食事をする”ちゃぶ台”に六人分の箸置きに箸が並べられていたというシーンがありました。三兄弟とお父さんお母さんとおばあさんでしょうか、仕事が忙しかったり、用事があったりで、六人そろって食べる日ばかりじゃなかったかもしれない。でも、そろって食べる日もある時期が何年かはあったのでしょう。そしてその何年かが彼の気持ちの中で一番楽しくて、落ち着く一日一日であったのだと思うです。

 決まった時間になれば家族みんなが「腹減った~」と家に帰って、母が用意する晩御飯を食べていた時代が私にもありました。こういうことに感謝したり、家族のことについて考えたりできるようになったのはもっと年を重ねてからなのですが、やはりそういうことが分かるようになるには、映画を観たり、誰かと同じ時間を共有したり、酒を飲みながら話したりすることが必要じゃないかと思うのです。

 街に出ることでのリスクの可能性は確かにあるのかもしれません。でもそれは、そのウイルスがない時でも、交通事故に遭うとか、工事現場で何かが倒れてくるとか、すれ違いざまに刺されるとか、色んなリスクはもともと存在しているのです。仕事や買い物に行くのにも制限をかけるのはおかしいのではないかと思うのです。今からでも、今必要のない政策を凍結して、その予算や人員を技術を時間を、新型コロナ感染症に対する特効薬の研究やワクチンの研究に移すということを全世界の指導者にはやってもらいたいのです。そして、人間が人間たる、自由に動き回って、楽しみ、感動できる日常がある世界に戻ることを私は祈っています。

 実はこの文章は、私が二人の買い物を待つ時間にそばのソファーに座って書きました。そして、私の隣の親子の会話。買い物カートに座る小さい子が「おしっこ~」と。お父さんが「おしっこーぉ?!トイレあっちかぁ?」と。こういう光景があるのが正しいのです。すれ違うこともできないくらいの混みようでした。でも私はこれが正しいと思っています。


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