続・ほろ酔い加減でひとり旅(二) 作:越水 涼
続・ほろ酔い加減でひとり旅(二) 作:越水 涼
「確か玉宮町の居酒屋のカウンターだったかな?十年、いやもっと前になるかなあ。僕がうつになる何年か前だから」
「そんなに前になりますか」
「今初めて話すんだけど僕の話したかったこと、聞いてくれる?」
「ええ。勿論」
「ありがと。祖母が亡くなって、母が倒れて、父が亡くなってっていうのが一番大きくて。その数年間に色んなやらなきゃいけないことがあって、僕のできるレベルを完全に超えててさ。会社でもその頃課長としてやることがありすぎて、そういう色んな重圧に耐えられなくなって。もう三月頃から自分でもおかしいと思ってはいたんだけど。五月終わりに会社の株主総会が終わって、会社帰りの車の中から奥さんに電話して。オレおかしいかもって言って」
彼は私の顔を見ながら、無言で頷き聞いていた。
「それで、次の日病院に行って。心療内科にね。自分では頭に何か腫瘍でもできて考えることができなくなった、なんて思ってたんだけど、先生はそれはないって言って。自分次第ですって。つまり、目の前の色んな問題を自分で考えて、ぶつかって解決して行くしかないですよと。それらから逃げられなくなったから、考えることを拒否してるだけですよって」
私はその日の自分を今、冷静にまとめて話した。話し乍らあの心療内科の医療器具も何もない大学教授の研究室のような、書斎のような部屋で妻を含め三人で話す光景を思い出していた。あの冷たい空気感が何故だか鮮明に思い出せるのが不思議だった。
「大変だったんですね」彼は一言だけ発した。
「とにかく半年くらいの間は何も考えられないし、毎日飲んでた酒も飲まないし、食べる量も少ないし、好きな音楽やドラマも全然で。何より眠れないのがきつかったなあ。やることがないから九時くらいに布団に入っても朝明るくなるまで殆ど眠れないんだよね」
「そうでしたか。えらかったですね」
「それで、会社でもヒラ社員に降格されて、毎日奥さんの作ってくれた弁当を食べ終わって、屋上まで行くんだけど、下の道路を見るとやっぱり怖くて。飛び降りることも結局できずにね」
「そんなに思い詰めてたんですね」
「うん。自分が世界中で一番不幸な人間だって思ってさ。毎日死ぬことばっかり考えてた。そんな中、親父が亡くなって。だけどその後だんだんと普通の状態に戻って行った。おかしなもんだよね。自分の周りの状態が変わったからかもね。会社も他の部署から一人持ってきて課長にして。本人の頑張りも勿論あるんだけど、今じゃ社長秘書みたいだよ」
「そうですか。でもそんな人材がいてよかったですね」
「うん。それはそう思う。僕は段々精神的には戻って来て、彼にも自分の経験や仕事を教えるようにして。彼は僕とは真逆で、何でもすぐやる性分でさ。僕なんか明日でいいことは明日にって思うんだけど、彼は今できるんなら今やるっていうのが基本みたいで」
「なるほど。人間ってそのどっちかですもんね」
「うん。すぐにやるってことは失敗も多いんだけど、でも総合的に考えるとそれでもその方がいいんだろうなって今は思うんだよね」
「はい。そうかもしれないですね」
「その後課員の女性陣も入れ替わって、今がベストメンバーだと思ってる。僕だけが成長してないんだけどね。いつもそれを思い知らされるんだよな」
「それは僕も同じですよ。もう五十歳過ぎたら下るだけでしょう」
「そうだね。はっはっはっ」
私は笑った。彼もそれにつられて笑っている。
「ありがとう。色々やっと話せてよかったよ」
「ええ。僕も」
「僕はそろそろ帰るけど。どうする?」
とっくに冷めたコーヒーを一口飲んで私は言った。
「僕はもう少しいますわ」
「そっか。街の大部分が変わっても、こうやってここに来て、たまには会って話しができたらいいよね」
「そうですね。このコーヒーの味は変わってないようですしね」
私はここまでの三杯分のコーヒーの会計を済ませて外へ出た。この急な階段も勿論変わっていない。人通りの少ないアーケ-ドの空気は私の気持ちと同じように清々しかった…。
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