私はいつまでもあなたと歩きたかった 第十章 ひがし茶屋街で 作:越水 涼

第十章 ひがし茶屋街で

 私は浅野川大橋を渡り終えるとそのまま真っ直ぐ進み二つ目の角を右へ折れた。そしてゆっくりとひがし茶屋街の中へと入って行った。やはり観光地だけあって若い二人連れ、制服の学生、シニアなどが歩いている。しかし皆マスクをしていて何だか腑に落ちない。そう思っていると、大きな柳の木の下を和傘を差して歩いて来る、茶色の髪を後ろで丸く束ねた着物姿の若い女性と擦れ違った。その時、マスクをしていない彼女の姿は世界中で一番美しいと、私は何故だか思った。

 リノベーションされた町屋が並ぶ石畳の道を歩いて行き待ち合わせの蕎麦屋を探す。元々が酷い方向音痴の私は、さっき金沢駅で貰ったパンフレットを見乍ら歩いているのにすぐには辿り着けない。右や左をきょろきょろし乍ら歩いていると、すぐ前から花嫁行列が向かって来る。近くにある宇多須神社での結婚式を挙げてひがし茶屋街を歩いているのだ。以前、何かで紹介していたのを覚えている。白無垢の美しい花嫁さん、関係のない私も右側にどいてその姿に見惚れ乍ら控えめに手を振った。

 そしてふと、そこに細い小路があり入り口に”蕎麦人”と書かれた小さな木の札が貼られているのを見つけた。そしてゆっくりと擦れ違えない程の道を歩いて行くと、焦げ茶色の格子戸の店があった。入口の上部に大きな木の板に筆で書かれた様な”蕎麦人”の文字があった。開け放たれた戸の中へ入る。すぐ右手にカウンターがあり、左手にテーブル席が二つあるこじんまりとした店だ。照明は暗く、カウンターの端に一人客がいる。

「いらっしゃいませ」カウンター越しに声を掛けられた。と同時に、カウンターの客が私の方へに顔を向けた。

「よう、弘子」浩二だった。

「お待たせ。でもまだ五分前だよ」腕時計に目を落とし、彼の隣の椅子に座った。

「半年、もうちょと経ってるか?」

「そうだね。もう秋だもん、早いね」

 私は、彼の殆ど白くなった髪と顔のシミを見て、再び三十三年の月日を感じていた。私はまた彼と会って何を話すというのだろう。ここに来てさえまだそんなことを思っていた。

 その時、マスターが注文を聞いて来た。

「俺はざる蕎麦にするけど、弘子はどうする?」

「私も同じで」と言った。

「あれからどうしてた?何か面白いことあった?」

「あれからって、名古屋で会ってからね?」

「うん」

「コロナのことで、色々対策なんかで大変よ。今迄の四月や今迄の夏休みの時期とは大学の状況が全然違うもん。ほんと異常だわ」

「そうだよな。世界中で誰も想像してなかった世界だよな」

「そんな中だけど一つあったよ。孫が生まれたのよ」

「えっ、そりゃ凄いな。大きい出来事じゃないか。でも、この前会った時は確か独身だって言ってなかった?」

「そうよ。独身は独身。旦那はもう亡くなったから…」

「そうなのか?旦那ってあの人だろ」彼は、私があのサークルの先輩と結婚したことは誰かに聞いて知っていたのだ。

 マスターが私達の前にざる蕎麦を置いた。そして、舌にざらつく位の二八蕎麦を二人、黙々と食べた。蕎麦湯がとても美味しかった。

「マスター、何か旨い酒と、つまみありますか?」浩二は聞いた。

「そうですね、”加賀の名月”はどうでしょう?甘みがあって。天麩羅と合いますよ」

「じゃあ、それでお願いします」浩二は昔の様に微笑んで言った。

 程なく、白身の魚の天麩羅と、蕎麦の素揚げ、グラスに入った”加賀の名月”が置かれた。

「じゃ、乾杯」と浩二。

「乾杯。ありがとう。また会えて嬉しいわ」

「またって、あれはほんと奇跡的な偶然だったよな」

「そうね。びっくりしたわ」

「ところで、今日はどうやって来たの?」

「福井から特急で、すぐだよ」

「そうか」

「それで、浅野川まで歩いて、ちょっと時間潰して…」

「浅野川、いいよな。風情のある橋が幾つもあって。それぞれに何かいいよな」

「ええ。私は梅ノ橋を渡ってきたの。”SONGS”のユーミンの回で出て来たのを前観てたから」

「そうか、それ俺も見たよ」

「えー、観たの?」

「うん。それに俺はさ、五木寛之が好きだから。彼の小説にもこの浅野川が出てきて、金沢に来たら絶対橋渡ろうと思ってたし、主計町のあかり坂、暗がり坂も廻ってみたいと思ってた。それで今日それが叶ったんだ。勿論、五木寛之文庫って言って彼の作品が一杯収蔵されている金沢文芸館も行ったよ」

「へえ、そうなんだ。よかったね」

「うん。高校生の時から読んで来た作家だから。これも読んだ、これは知らないなんて見てたよ。あっ、そう言えば昔、本貸したことあったよね。”青春の門”を何冊も」

「そうそう。私びっくりしたのよ。読み進んでいくと、何か思ってもいないいやらしいシーンが出てきて。そういうの全然だったから。まだ十九歳だったし」

「そう言えば、女の子の十九歳の誕生日って一生で一番大事だって何かで見たから俺、色々考えて迷って、確か弘子に猫の形した革の小さなショルダーバックプレゼントしたっけ?」

「そうだった。でも私本当は、何この趣味悪いのって内心思ってたの。ははは」

「そうか。御免ね。女性にプレゼントなんて多分初めてだったからサ」

 昔話でどんどん浩二の声が大きくなった。マスターは気を遣ってか奥の調理場にいるようだ。

「弘子は俺の誕生日に現金一万円くれたの覚えてる?俺がいつも金がないって言ってたから。御免ね。でも、助かったあの一万円」

「そうね」

「あの頃色んな所行ったな。七ツ寺共同スタジオで演劇研究会の芝居観たし、南知多ビーチランドとか、映画も、そう、”恋に落ちて”だったね。鈴木珈琲店も何度も行った。飲みに行くのはいつも”大学亭”だったな」

「浩二さん、よく覚えてるね。三十何年も前のことなのにね。私も覚えてるけど」

 ここまで話して、浩二は奥のマスターを呼んで、同じ酒を頼んだ。

「そう言えば、浩二さん煙草吸わないのね?この前もそうだったけど」

「うん。やめたよ。子どもが生まれてからだけど。二十年以上前だね」

「そうなんだ。そういう人多いみたいだね」

 マスターがお酒を持って来た。

「楽しそうですね。昔話に花が咲いてってやつですか?他にお客さんいませんから、ごゆっくりしてくださいね」

 冗談か本気か分からないけれどそう言ってまたマスターは奥へと行った。浩二が私にお酒を注いでくれてまた話し始めた。

「そう言えば、八月の終わりから先週にかけて、昔のドラマやってたんだけど。”愛していると言ってくれ”っていうドラマ」

 私は正直、昔話はこの位にして欲しかった。今日会うことにしたのも、彼にどうして私の前からいなくなってしまったのかを聞きたかったからだったのだ。そのドラマを実は観ていた。全部ではないが観ていた。けれど、私は言った。

「当時は観てたけど。最近やってたんだ。知らなかったな」




 


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