佐々木君どうしてる? 第一章 ホームにて 作:越水 涼
第一章 ホームにて
私が最近思うのは、このWEBやらデジタル化という何ともイメージだけの風潮が世の中に蔓延っていることだ。
確かに便利だ。一か所に集まらなくても話ができる。一応の表情はわかる。家に病人がいれば会社に行かずに仕事ができる。三十年前なら考えもしなかったことだ。確かに記録に残せる。記録をどこへでも送れる。どこへでも持ち出せる。
しかし、ちょっと待てよ。画面上でのその平らな表情から”察する”ことができるのかい?雰囲気や匂い、本心がわかるのかい?その平らな音色とボーカルから熱は感じられるのかい?ミュージシャンとオーディエンスが一体になれるのかい?この映像を観て記憶に残るのだろうか?何年かしてその時の高揚感を思い出せるだろうか?家に病人がいても仕事にへばりつかなきゃいけない世界って?こんなこと本当に主流になっていくのがいいのだろうか?私は毎朝車のテレビを見ながら思う。
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夕方、チャイムが鳴ると同時に生徒は思い思いの行動に出る。部活のため部室へと走る者。塾へと急ぐ者。そのまま教室でお喋りする者。男女関係なく色々だ。私といえば机の中の教科書やノートを全て黒のクラリーノ学生鞄にぽんぽこぽんに、そそくさと入れ、さっさと教室を出る。佐々木はといえば彼も同じだ。いつからどちらからともなく一緒に帰ることが日常になった。今日は生物部は休みだ。
焼却炉の前を通り裏門を出る。しばらく歩くといくつもの墓が道の両側にある。その道からもっと細い畑や田んぼの間にある道を私達は歩く。
初霜まで刈らない稲穂が大きく頭を垂れている。セイタカアワダチ草が大きな顔をして密生している。今はこの地域では一番の主役の柿がそこかしこの柿畑にその実をぶら下げている。もちろん私達はまさか柿泥棒にはならない。あんな固いものをかぶりつきはしない。蜜柑ならやるかもと私は思う。
学校の門を出て丁度十分で美濃北方駅に着いた。私と佐々木が通学に使っている電車の駅だ。この駅では線路が二つになっていて上下二つが待ち合わせをしている。駅の前には広場があり踏切の脇にパン屋がある。私は買ったことがないがその店では近隣の二つの高校生が買い物に利用している。
駅員に定期券を見せ私達はいつものようにホームに立ちそれぞれが乗る電車が来るまで立ち話をした。
「さっきの話だけど」
「うん、オレ二十点だったよ」私は今日の数学Ⅰの単発テストについてぼやく。
「うわあ。わしは二十五点やて」
私達はそろって赤点で週末の”補充授業”を受ける羽目になったのだった。
「ほんと何にも分からんもんなあ?」
「そうやて。参ったなあ」
私達は何度目かの同じような会話をして、今日の”学校という箱”からはひとまず逃避したのだった。
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