片道一九八〇円の旅 五.豊橋駅西口の郷愁 作:越水 涼

 五.豊橋駅西口の郷愁

 豊橋で暮らした時には何故だか一度も乗ったことのなかった路面電車に今日初めて乗ってみた。豊橋公園の真ん前にある電停から駅前までの僅かな時間に車窓から見る街は河井浩二が記憶していた豊橋とはまるで違って見えた。

 この旅も帰宅時間から逆算して三時にはJR豊橋駅を出発しなければならない。その最後の一時間は駅の裏口の豊橋駅西口を出て歩いてみることにした。

 西口を出て左前方には大きなマンションの工事現場があった。この辺りには浩二の記憶では豊橋の書店では精文館書店を超える老舗の書店豊川堂の店舗や大衆食堂があったと思う。その大衆食堂で卒業式の前日に母と夕食を食べたのだ。苦労して大学へやってくれ毎月の仕送りをしてくれた母との数少ない外食の記憶。その一度だけ彼のアパートの部屋に泊まった母。毎月の仕送りの殆どをパチンコに使ってしまった彼は本当に親不孝者だった。そんなことを思い出させるこの場所では今違う歴史が流れている。

 そしてもう一つの記憶。当時やっていたアルバイトで”便利屋”というのがあり、定休日のパチンコ屋の掃除に行ったり、ビジネスホテルの掃除やベットメイキングに派遣されたこともあった。ある日、パチンコ屋の掃除に行って掃除をしていると社長に呼ばれ、いきなりクビを言い渡された。ただ、何故クビになったのか理由が分からない。「お前はいつも暗い顔をして嫌々仕事してる」と言うのだが自分ではそんな積りはないのだ。納得できない彼は社長に電話をしてそれまでのバイト代を受け取る為に待ち合わせをしたのが、この豊橋駅西口前だった。そんなことまで憶えている。

 そして今はコンビニがある右前方の角には確か”停車場”という名の喫茶店があった。一度だけ入ったその店は床が板張りで、テーブルも椅子も黒で統一された何か落ち着かない雰囲気だったと思う。

 当時もこの辺りをくまなく回ったわけではないのだが今のこの姿は大きく変わったのは分かる。駅に戻る時に左手を見ると今は”わんぱく通り”と呼ばれるざっと二十軒程の飲食店の立ち並ぶ通りがあった。どうやら彼がいた当時にもあったようだが一度も寄ったことはない。

 思い返してみると彼の豊橋での五年間の生活の中心はアルバイトだった。土方や測量補助、豊橋丸栄での粗品配り、便利屋、浜松のスズキの工場、学習塾の先生など色々やった。学費と生活費を稼ぐために仕送り以外にもそれなりの金を工面しなければならなかったのだ。だから食費も切り詰め、大抵は簡単なものを自炊して、外食は滅多にしなかった。夜中に腹が減って近くの「サークルK」で百円位のキャベツを一つ買ってきて千切りにしてマヨネーズをかけて食べたりもした。

 そうなのにパチンコで勝った時には大衆食堂に入り四百五十円の焼肉定食に瓶ビールを注文した。それが一番の贅沢だった。多くの場合は二百八十円の魚フライ定食だった。喫茶店でのコーヒーも二百八十円だったと思う。

 アルバイト、サークル、友人、恋人のこと、そしてそれらの舞台と時間があったこの豊橋自体が今と三十五年前とは別の物なのだ。今日その時間の記憶を思い起こして、懐かしむことが何か自分のプラスになるのでは、と思って来たことは間違いではなかったのか?何か意味はあったのだろうか?今日は今日。明日は明日。過去を懐かしむことが何になるのか。

 当たり前が当たり前でないことを今気付いたわけではない。自分に明日が必ず来る訳ではないということは分かっていた積りだ。学生の頃だって今しかできないことをして毎日精一杯やっていたのではなかったか。自分を変えるためにわざと赤い服を着てみたり、パーマをかけたり、生まれて初めて女の子に告白したり。

 そうその時はその時で誰もが懸命に生きているのではないか。明日は今日までの自分に足りない物を埋めて行く作業を自然にしているのではないか。自信を持てと、胸を張れと、生きていることだけですなわち意味があるのだと。そして、昔を思い出すこともまた構わないのだと。

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