或る古書店店主の物語 第四章 老人とコーヒー 作:越水 涼

第四章 老人とコーヒー 

 老人はコーヒーを飲んだ後話し始めた。

「さて、今日は語り明かしましょうか?まず私のことからもう少し話します。私も元々はここの出身ではないんです。実は東京生まれの東京育ちで、高校までは東京で過ごしました。ごく普通の七・三に分けた黒縁眼鏡の近眼で何の取柄もない学生で。でも一つだけ夢があって。学校の、それも小学校の先生になろうとその頃思っていました。それで、その時の成績から入れそうな大学ということで、東北地方にある教員養成の大学に入りましてね。ただ、その四年間に教員免許を取り、勿論教育実習もやって、いくつかの採用試験にも通っていざ現場にってなった時期に、社会で起こっていることが余りにも多岐に亘っていて、こどもに何か教えるってことが余りにも狭い範囲のことなんじゃないかって思ってしまって。今思えば、それも本当は大きなことだっていう話なんですけどね。この時は、何か違うっていう思いに頭の中がなってしまったんですね。結局、その年には就職せずに、東京へ戻って来て一年働いてお金を貯めたんです。毎朝新聞配達でしょ、昼は建設現場で掘ったり、運んだりで、夜は受験勉強して、別の大学に入り直したんです。もう二十三歳だったけれど、世の中を見るならもっと根本的なこと、経済や哲学を知らないとと思ったわけですよ。その某私立大学は当時まだ在野の、骨のある、活気のある学生が日本中から集まっていたんですよ。それぞれに自ら考えて、発言して議論 してね」

 老人は当時の東京での学生時代の生活について熱く語った。1970年代初頭と言えばまだ私が小学生の頃に当たる。 私が片田舎の小学生でアメリカザリガニを捕まえたり、近所の豆腐屋で売っていたサイダーを立ち飲みしていたり、意地悪なクラスメイトに泣かされていた頃、この人は何と二回目の大学生をやっていたのかと思うと、何か大変に不思議な気がしたと同時に、そんな何の所縁もない私達二人が、これもまた何かの因縁かこの天井の高い古ぼけた部屋でLPと古本に囲まれてコーヒーを飲んでいる、何て不思議な光景なのかと思ったのだった。

 と、老人が大きく手を叩いた。

「そうだ、まだお互い名前を言っていなかったじゃないですか!余りにも申し遅れましたけど、私は古山、古い山と書いてフルヤマです。貴方は?」

 私も名乗っていなかった。

「私は、河井です。さんずいのカワに井戸のイです」

「河井さんか。でも苗字なんて所詮、山や川とか自然や風景の文字を組み合わせただけの物だから、あってもなくてもいいんだよ」

 古山さんは段々とですます調が消えて言葉が友達に話すように変わって行った。二人の前のコーヒーカップは空になっていた。

「何だかお腹すきましたね。夕食まだでしたね。うどんでも作りますか?」

 そう言うやいなや古山さんは、また奥の部屋へ行って、鍋と乾麺と菜箸と丼を持って部屋から出て行った。暫くして戻って来て湯気の立ち上る丼を二つ机に置いてまた奥の部屋に行き割り箸と七味唐辛子を持って来た。そして私達は薬味のないそのうどんを、熱い、熱いと言いながら食べたのだった。つるつるでこしのあるそのうどんが、私には妙に美味く感じられた。

 汁も飲み干して満腹になった後、主に私の方が身の上話をした。フェリーの中でも話した会社でのことがやはり中心になった。

「ある時期、課の女性陣の中でいざこざがあって、一人が会社を辞めると言い出したんです。その子だけが孤立して、勿論私に強いリーダーシップがあればまた違う流れもできたかもしれない。でもその頃は仕事上の別の問題もあったし、子どもも小さかったし、祖母の介護に関連して家の状態も普通ではなくて」

「そうでしたか」

「それで私は毎日続くそういう問題を解決できずに、ある日もう頭が一切思考を停止したんです。本当に何も考えられないんです・・・。そして、昼休みに妻の作ってくれた弁当も喉を通らず死ぬことばかり想像していました・・・」

 私が頭を反らすと見えた壁の時計の針はもう零時を指そうとしていた。






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