或る古書店店主の物語 第五章 朝に誓う 作:越水 涼

第五章 朝に誓う

 続けて私は話した。

 その私がおかしくなった約二か月の間についてだ。家でもテレビも観ることさえしない。毎日切れ目なく飲んでいた缶ビールも飲まない。好きな音楽を聴く気も起らない。殆ど子ども達に対してさえ関わろうという気も起きない、そういう時の話だ。

「娘が小学校で社会見学で一泊の旅行があったんですね。でも初日に熱を出して、先生から電話が掛かって来て迎えに来てもらえないかというので、家から何百キロもあるところへ私が行くのは絶対無理なんです。だから妻が行ってくれました。妻も一人で走ったこともないそんな遠方へ行くのは凄く不安だった筈です。でも私なんかと違って母親ってもう、何でもできるんですね。特に子どものことはどんな難しいことでも。それ以来今まで、妻に頭が上がりません」

           ×××

 四年前からの新型コロナウイルスの一番大変だったことの話もした。今では、たまにニュースになるくらいだが。しかし本当は多くの人に影響しようが、ほんの少しの人に影響しようが、その人一人やその家族などにとっては大変なものは大変なのだ。新聞が取り上げなくても今この時に苦しい思いをしている人は世界中にいる。それは意識はしている。

 そういった今に続いて来た過去のことを思い出し思い出しして、何年も経ってしまえば過去の自分さえも第三者的に見て話すような、古山さんとの話そのものはとても面白いのだが今まで大抵十時には布団に入り本を読もうとしてそれこそ二ページも読み進めないまま眠くなっていた私にとって、この午前零時という時間はもう眠くてしようがないのだった。目を擦ったり、頬を叩いたりしながら話をしたり、聞いたりしていた。

 古山さんは私のその状態を少しも気に掛けることなく再び玄関の横のコンロへ行って湯を沸かして来てコーヒー豆を挽いてぴったり二杯分のコーヒーを淹れた。気のせいか一杯目のそれよりもかなり濃いように感じられた。 

「そのコーヒー豆はどこで買われるんですか?」もっぱら粉のものしか買ったことのない私にとって、その都度豆を挽くということがとても羨ましく感じられた。

「これはねえ、神戸にある決まった店で買って来るんですよ。月に一回ね。もう昔からですから一か月これだけ買えばいいという量は分かってるからね」 古山さんの話し方も段々と柔らかくなって来た。

「なるほど、そうなんですね。私の学生時代とても世話になった先輩がいて、その人に私は生まれて初めて豆を目の前で挽いてもらって飲んだんです。そうです、まさにこれと同じ手動のレバーを回すやつです。私はインスタントコーヒーしか喫茶店で飲む以外ではそれまで飲んだことがなくて。でも、その人の部屋ではいつも淹れてもらって」

 私がそこまで話すと古山さんは立ち上がって棚から一枚LPを抜き出し針を落とした。五輪真弓だった。

「私の学生時代にほんとよく聴いていたんですよ」と言う。

 私にコーヒーを淹れてくれたあの先輩の部屋でももっぱら五輪真弓が掛かっていたことを思い出した。

 古山さんと私はそれぞれの思いを胸に、ただそれを聴いていた。私はしばらく目を閉じていた。

 そのLPが一回りした後は、私の故郷のことを話した。この島と比べれば面積は三分の一、人口は同じくらい、雪は年二、三回降る。特には大きな工場はなく、でも鮎や柿や薔薇が売りで古墳がある歴史のある町だということなどを話した。

 だんだんと外が白々と明るくなって来たようだ。古山さんは微笑みながら言った。

「まあ貴方ならきっと大丈夫ですよ。この店、まあ適当にやって下さいよ」

 私達は外へ出た。そして大きく伸びをした。とても寒いが天気は良さそうだ。

 前方から人が走って来た。

「お早うございます」「お早うございます」と私達。

「お早うございます」

 どうやら、隣の花屋の女性らしい。この人とも新しい時間を作れるといいなと思った。

コメント

人気の投稿