或る古書店店主の物語 第八章 真由(三) 作:越水 涼

 第八章 真由(三)

 お店に一つだけある大きなテーブルの椅子に二人横並びで、海の方が見える窓を見ながら話した。大体の話はこうだ。

 短大を出て、小さい頃からの夢だった花屋の店員になった私は家からバス一本で通える個人でやっている小さな花屋に就職した。だから、二十歳から三十歳位のことだ。それは河井さんと話すようになってから河井さんが結婚してしばらくの間だと思うが、店主とのことを話すようなタイミングもなかったし、関係のない人に話そうなんて思いもしなかったのだ。

 私は花屋に憧れがあって、普通の人に比べれば全然花には詳しかったと思う。とは言え、素人に変わりはなくて、店主からは厳しい中にも時に優しく花と花屋のあるべき姿について毎日教えてくれた。丁度お父様が店を引退した頃で、彼はとても仕事に真剣に向き合っていた。私より五歳ほど年上で独身だったから、段々と私の方が彼を好きになっていった。店の中では、小さいながらもフラワーアレンジメントの教室もやっていて、それに来る女性も若い人が多くて、中には私なんかには及びもしない美人さんがいた。誰に対しても優しい彼は勿論、彼女にも同じように優しく接した。そして、私が何年も先延ばしにしてやっと告白しようと決心した時には、時すでに遅しで、二人は付き合っていたのだった。

 毎日同じ時間に出勤して、お客様をお迎えするのに掃除して、店主が朝早く市場で仕入れて来たお花をウインドウ内に綺麗に入れて、注文の電話やFAXに対応して、河井さんのようなお客様の応対もして。その合間に包装紙や紐やセロハンや色んな備品の管理と納品書や請求書の発行もやった。毎日そんなほとんど同じことの繰り返しだった。

「そうだったんだ。店主さんとのことは全然知らなかったなあ。と言うよりも、僕は真由さんが奥さんなのかなって思ってたもん。若い奥さんだなあって」

「そんなわけないよ」

「それで、突然、辞めることになったって言うから、えっ奥さんじゃなかったのって思ってた」

「二人が結婚するってなって、もう私の居場所はないって思ったの。だから、河井さんとお話しするようになった頃から二、三年が一番楽しい時期だったかな。店主には憧れの気持ち、毎日ウキウキするような気持ちでさ。このままの毎日が続けば私の夢の”お花屋さんの奥さん”に近づくし、何より好きな人の傍にずっといられることが幸せだったの。でも私からはその気持ちをずっと言い出せなくて。そしてさっき話した彼女が現れたの」

「そっか。苦しかったなあ、真由さん」

「僕のことも話していいかい?」

「うん。聞かせて」

「もう、真由さんが花屋からいなくなってからのことだけど。特に四十代が一番苦しかったなあ。明日やるべき仕事を書き出すんだけど、どう見てもその日のうちに終わりそうにない。かと言ってその仕事を他の課員にやらせるのにはまた説明が要る、ならば自分でやった方がいいかって。九時に会社を出てから道中でラーメン屋に寄ってラーメンを食べてさ。家に帰ると妻が晩飯を作って置いてくれて。家事と子育てとパートで疲れてるのに、僕は何してるんだろうって」

「うん」

「晩飯にはビール飲んで、風呂出てからはネットサーフィンしながらチューハイ飲んで、あられ食べてさ。寝るのは一時とか二時とかで」

「それはいけないよ。河井さん」

「そう。それで勿論ほかにも色んなことがあって、体も心もおかしくなった。そして平社員になってからだけど、定年前の最後の十年はいいメンバーに恵まれて、毎日同じことの繰り返しであっても、その中に何か喜びを見つけようとしたんだよね。もっと若いうちに気付けよって話だけどさ」

「そうだよね。毎日が単調だったり、嫌なことが九あっても嬉しいことが一あれば何とか留まれるもん」

 その通りだ。結婚は叶わなかったけれど、私の傍にはいつもこの可愛い花がいる。いつも微笑んでくれる花がいてくれる。河井さんと話してそう思った。


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