或る古書店店主の物語 第九章 沙希(一) 作:越水 涼

 第九章 沙希(一)

 アルバイトへ出かける前、父はいつも「気を付けてね。マスク持った?スタッフ証持った?免許証持った?」と言って送り出してくれた。ひとり暮らしの今、わたしには傍に誰もいない。”ゴールデンウイーク”に入って久し振りに、故郷に帰って来た。と言っても、古くなった実家の中に今は誰もいない。神戸の大学に学び、小学校の教師になってから三年、今年初めて担任を持った。三年生のクラスだ。私は英語専修だったが小学校では英語以外の全ての教科を教えている。正直なところ「社会科」は得意ではない。中学生になってから毎日のように父に「新聞はちゃんと読めよ」と言われてもいつも聞き流していた。今頃になって、あの時父の言うことを聞いておけばよかったと後悔している。それが拾い読みだったとしても、毎日読んでいれば今とは大分違っていたと確かに思う。

 今日は気分転換に朝早く神戸を出て、この故郷の島に来た。この季節、フェリーに乗る時間にはとうに日は昇っていて快適な気温だ。考え事をしたり、目の前を走る小さな子を眺めているうちにフェリーが島に着く時間になった。フェリーを降りてレンタサイクルを借りた。今日はこれで島を一周してみようと思っていた。

 目が回るような忙しさの仕事の中で気にも留めなかったが、いつの間にか桜や菜の花の季節は過ぎてチューリップが色とりどりの花を咲かせている。走っているうちにそんな懐かしい風景が目に飛び込んで来た。

 実は今日は一つ大きな目的があった。偶然に見つけた島の”織衣布古書堂”に行ってみたかった。そのホームページの中で「店主の部屋」というコーナーがあり、何でもお話聞きます、と書いてあったのだ。私の今の大きな悩み事を親や友人や同僚ではなく、むしろこの全くの初対面の人に聞いてもらいたいと、何故だか思ったのだ。その紹介写真で暗い照明の部屋の中でほんの少し黒い毛が残る白髪の初老の店主が笑っていた。そしてその後ろにはLPやCD、古本が所狭しと並んでいた。実は私はこんな雰囲気が好きだった。

 私はそこを目指して自転車のペダルを漕いだ。目の前にその店があるらしいシェアハウスが見えて来た。


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