或る古書店店主の物語 第十一章 沙希(三) 作:越水 涼

第十一章 沙希(三)

「そうですか。今はそんな時間が設定されてるんでしたね。僕の小学校の記憶を辿ってもあんまり憶えてないんですよ。あっそうだ。お名前だけ聞かせてもらえますか?」

「すみません。私は沙希と言います。さんずいに少ないと希望の希です。自分ではこの名前ちょっと気に入っています」

「ええ、いい名前ですね。私もさんずいだから共通点がありましたね。店の名前にも布が付いていてそれも同じですね」

 私は店主の声を遮るように話を続けた。早く悩みに対しての明快な答えが欲しい。

「私は教師になって初めて担任を持たせてもらってとてもうれしくて、毎日学校に行くのが楽しいんです。ただひとつ、悩みの種があって。この何年かで”性教育”が重要視されて来ました。私なんかこの子達にこういうことを教えたり考えてもらうのは早いんじゃないかとか、それは親が教えることなのにとか思ってしまって。来月からその授業が始まるのですごく嫌なんです。どうやって子ども達に分かりやすく説明したらいいのか、最近はそればっかり考えていて…」

「なるほど、そういう悩みですか」

 店主は腕組みをして目を瞑って、眉間に皺を寄せながら暫く考えていた。私の悩みに的確な答えをくれるだろうか。

「難しいなあ。性教育は、正直言うと僕の守備範囲の外のテーマですよ。私にも子どもがいますけど、その辺りのことも含め、子どものほとんどのことは妻に任せてた、というか押し付けてましたから。駄目な夫で、父親でした。当然娘には小学生の時に体の変化が色々あったと思うんだけど、外から見える一部のことしか見えていなかったし、見えていることについても妻と話し合ったって記憶がないんですよ。一つ鮮明に覚えてるのが、下の娘がある日突然に風呂に一緒に入らなくなってね。昨日まで楽しそうに入っていた筈なのに、本当にショックだったことです。同時に口もきいてくれなくなるしでね」

 店主の娘との思い出話じゃなくて、”性教育”の仕方を聞いてるんだけど、と思いながら私は次の言葉を待った。

「うーん、ごめんね。ちょっともう”です・ます調”やめるね。なんか話しにくいからさ」

 店主の声のトーンが変わってきた。

「性教育って、一つには科学的にまず教えることだと思う。もちろん十歳位の子に教えるわけだから簡単なことを、でも僕達が動物だから男も女もこうやって体が変化していくのが当たり前のことで、それが大人になっていくことだっていうことを筋道立てて、イラストより本当の卵子や精子の映像で教えるのがいいんじゃないかな。大人になるっていうのは、体の中では生殖ができる準備がされて、外からもわかるのは背が伸びたり、毛が生えたり、胸が膨らんだり、声変りをしたりってことだけど、それらはすべて人によって早かったり遅かったりあるし、つまり体も心も性格も誰もが違っていて当たり前なんだってことも含めて一緒に教えるのが大事だと思うんだよね」

「そうですね。それは頭では分かっていますけど」

「うん。それと昔からの日本の文化で、男が偉くて女は男の言う通りにしていればいいんだなんて考えが大勢を占めてた時代が長くあったんだけど、完全に違うよね。男も女もお母さんの腹の中で育って生まれてくるんだからそのお母さん、つまり女の方が偉いに決まってるよなあ。そうじゃないか?はっはっはっ」

 店主は大笑いした。

「そして、もう一つは理性についてだね。体が成長していくと、この子が可愛いから抱きしめたいとか、キスしたいとか、触ってみたいと思うようになるかもしれない。思うのは普通のことだけど、これも人によって差があるわけで、相手の子はそんなことしないでほしいと思うかも知れない。心はその男の子を好きでも、体には触れてほしくないとかね。つまり、自分のことだけではなくて相手の気持ちも考えて行動するのが大人なんだよって教えてほしいんだよね」

「なるほどです」もっと違う言い方があるだろうに私はそう言って大きく頷いた。

「三年位前かな、コロナで世界中が大変だった時に生理用品さえ買えない女性のことが大きなニュースになったけど、僕もそれを見て、ほんと自分が情けなかった。そういう事を自分は考えたことさえないと。多くの場合一か月に四日から七日も体がそういう状態で体も気持ちも辛いのに生理用品が買えない、手もとにないなんていう国が日本も含め世界中にあるってこと。今まで何やってきたんだオレって思った」

「そうだったんですか」

「僕が思うに、性教育って言ってもそれは、自分の身を守ることと、相手を大切にすることをちゃんとできるようにするための教育ってことだよ」

「はい」

「でもね、小学校ってもちろん先生は色んなこと教えていくでしょ。それらすべての時間が子どもの血となり肉となり、少しずつ成長していく。それ自体がきっと貴方のこれからの人生そのものになっていくと思うんだ。とにかくだ、楽しく、元気にやればいいんじゃないかな。君の思うままにね」

 そうだ。私は一人ではない。皆に助けてもらいながら少しずつ進めばいいんだ。そう思えた。

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