或る古書店店主の物語 第十四章 亜紀(三) 作:越水 涼

 第十四章 亜紀(三) 

 この島での生活も慣れてきた。何かを生産するでもない、何かを建設するでもない、何かを育てるでもない、この半年そんな生活を送って来た。昨日やっとのことでと言うのか、痺れを切らせて私は妻に電話をしたのだった。電話で妻が言ったことは二つ。「無事で元気だったのなら私はこのままでも構わない」というのと「あの子達には連絡取ってあげてね」とだった。あの子達というのは二人の娘のことだが、特に下の娘は私がいなくなって最初の一週間は毎日泣いていたらしい。

 八月の日の出は五時過ぎ。今朝も私は四時半には起きてこの周りを歩いた。思えばここへ来て歩く時間は格段に増えた。会社勤めの時は社内を伝票や荷物を配って歩くか、昼休みに食堂に行くかぐらいのものだった。年に一、二度妻と街中を散歩するか、岐阜の金華山に一番楽なコースで登るのが精々だったのだ。朝の散歩を終えた私は建物の前にある木製の古びたベンチに座って東の方に見える海を見ながら、その昨日の電話を思い出していたのだ。八月でも流石にこの時間は涼しい。余程の深酒をしない限り私は大抵この時間には起きている。五十五歳を過ぎた頃からだったろうか、十時前には眠くなって横になればあっという間に眠りについた。そして日の出前には目覚めてしまうのだ。

 さて朝飯でも作るか、と思い立ち上がった時向こうから誰かが走って来た。新聞はもう来ているし、牛乳を取っている人はここにいなかったと思うが。あっという間に私の目の前に来たその子は言った。

「お早うございます。ここに織衣布古書堂はありますか?」

 背中に白いリュックを背負った彼女は小学生のように小さな子だった。麦わら帽子の中に見える目は大きくてまんまるだった。

「はい。ありますよ。ここの玄関を入ってすぐです。私が店主ですが、貴方は?」後ろを指差して私は言った。

「あっ、よかった。店主さんですか?河井さんなんですね?」一息ついて彼女は続けた。

「私は以前お手紙を差し上げた亜紀です。ホームページを見てどうしても店主さんに話を聞いてもらおうと思って」

「はい。貴方が亜紀さんですか。手紙には夏にでもと書いてあったから、いつ来られるのかと思っていました」

「すみません。実は私、手紙を出したすぐ後に病気になってしまって。入院していて」

「そうでしたか。もう大丈夫なんですか?」

「ええ、今はもう何でもありません」少しうつむき加減で亜紀は言った。

「あ、ごめんなさい。こんなところで立ち話して。じゃあ、中へどうぞ」私はやっと話を終わらせ店へと案内した。私達の気配を感じたのか、玄関前の松の木の枝にとまっていたホトトギスが飛び立ったようだ。

 部屋に入るといつものように一つしかないテーブルの前に座ってもらう。「ちょっと待っててね」と言った私は奥へ行き朝食の用意を始めた。勿論その前に、荒井由実のアルバム『ひこうき雲』をセットした。彼女の話を聞く時はこれと決めていたのだ。

「お待たせしました。棚田でできたコメと、ナスの赤だしの味噌汁と佃煮と生卵です。私も見よう見まねで作っているんですが、やっぱり材料が良ければ何でも美味しいんですよね」

「はい。有難うございます。美味しそうです。頂きます」満面の笑みを浮かべて亜紀はその小さな手を合わせた。今日は楽しい日になりそうだ、と私も手を合わせた。 


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