或る古書店店主の物語 第二十二章 加奈(四) 作:越水 涼

 第二十二章 加奈(四)

 私はLPをかけることもせず、静寂の中ただコーヒーの香りを感じ乍ら加奈の話を聞き入った。加奈は窓の方を眺めて思い出すようにしてとつとつと語った。

「二年なんてすぐでした。周りには世話を焼くのに自分のことは本当は何も分かっていなかったんですよね。父の部下の彼が家に来るようになって、エリートバンカーで長身でイケメンだったから好きになった気になっただけだった。二十三歳で結婚して、二十五歳で離婚して」

「そうか。でもね、自分のことを百パーセント分かってから結婚する人なんていないんじゃないかなあ。分かってからなんて言ってたら誰も結婚できないよ。勿論僕もね」

 加奈は寂しく苦笑いをして続けた。

「離婚して考えたんです。色々。自分は何で生まれて来たのか、何をしている時に一番穏やかな気持ちでいられるか、夜眠る時に何を明日したいと思うか、色々です。毎日毎日考えてました。図書館で恋愛小説も哲学書も政治や経済や歴史の本も読んだんです。でもすぐには何がやりたいか思い浮かばなかった」

「そう、離婚から立ち直るのがまず大変だし、次のことなんてすぐには考えられないよなあ」

「ええ。それでもある日、わかったんです」

 加奈は急に表情を変えて背を伸ばして言った。

「いつものように家の周りを散歩してたんですね。丁度桜の咲く頃で。でも相変わらず悩んでた私はその頃化粧もしないまま外へ出ていたんですけど。目の前に横断歩道があって、そんなに大きい道じゃないんですけど、目立つ交通安全の上着を着たおじさんが車を止めて小学生を渡らせているところで。その小学生は小さい子も大きい子もいて、皆手を挙げて走って渡って行くんです。大きな声で”おはようございます”って言って」

「ああ、よくある光景だよね」

「まあそうなんですけど。でも私はその時思ったんです。子の子達に色んなことを教える教師になれないかなあって。なぜだかそう思ったんです。家に着くまでそうだ、これだって」

「それで?」

「自分がどんな人間か分かってるのとそうじゃないのとでは色々違うって思って。自分を理解して同時に相手も理解できるし。小さい子どもには人間社会や学校や友達やもちろん家族の間でもあるルールを教えたり、接し方や愛し方や生きる意味を教えながら自分も学びたいなんて考えるようになって」

「なるほどねえ。でも教師って大変だよね。ずっと気が抜けないって言うかさ。子どもに対してのことだけじゃなくって、同僚や校長や教育委員会や親に対しての仕事もあっていくら時間があっても足りないってイメージがあるんだけど」

「そうでしたね。実際教師になってからそれはその通りでした。でもそれよりもやっぱり子どもを目の前にすれば楽しいことも一杯あって。元々誰かのことを放っておけない性格だし、気にかけずにはいられないって言うか」

「うん。大学には何歳で入ったんだっけ?」

「はい。離婚した次の年の春なので、二十六歳ですね。それから四年後三十歳で教師になりました」

「すごいなあ。頑張ったんだなあ」

「はい。もう、頑張りましたよ。でも大学に入ってからも正直不安はありました。本当にこの道でいいのかっていうことは自問自答していました。でも三年生の秋に教育実習があるんですけど、そこでの三週間で教師になるんだっていう気持ちが完全に固まりました。私はこれに人生を懸けようってしっかり思えたんです」

 加奈は教育実習で考えたことを話し続けた。

「実習で二年生の二十八人のクラスを受け持って。皆ちゃんと私の言うことをじっと目を見て聞いてくれる。大人なんて聞いているようでこっちの言うことを聞いていないですよね大抵」

「まあそうだね」

「ですよね。子ども達は違うんです。何もかもを新鮮に感じて、純粋に自分の中に吸い込もうとしているみたいで。いつも思いっきり笑って、泣いて。私は一緒に学んで一緒に成長したいって思ったんです。それからもう何年も経ちました。でも、五年前に始まったあのことはかなり参りましたね…」

 その後、加奈は学校現場での消毒・マスク生活の苦労を話し始めた。それは私が知る範囲をかなり超える話だった。



 

コメント

人気の投稿