或る古書店店主の物語 第二十三章 加奈(五) 作:越水 涼

 第二十三章 加奈(五)

「加奈さん、今日の予定は?」

「ええ、今日の三時過ぎのフェリーで帰ります。遠足の下見なんて言いましたけどそんなの口実ですし。この島には結構来てるんですよ。実は」

「そうか。じゃあ昼ご飯食べに行こうか?」

「はい。どこか、いいお店あります?」

「そうだなあ。パスタのいい店があるんだけど、いいかな?」

「はい。お願いします」

 こうして、私達は河井さんの軽トラックで港がすぐ目の前に見えるこのカフェに来た。河井さんのお店と同じでここも古い木造の平屋をリノベーションした様だった。私はオリーブ入りペペロンチーノを、河井さんはいか入りドライカレーを食べた。

「河井さん、オリーブがあるとインパクトありますよね」

「そうだね。美味しいでしょう?」

「はい、とっても美味しかったです」

 そして、食後の炭焼きアイスコーヒーを飲みながら話した。

「さっき少し言いましたけど、五年前から始まったコロナ下の教育現場は本当に参りました」

「うん。大変だったでしょう」

「それまでは、接することがまず大事なことで、気持ちを接するのと体を接するのはセットなんですよね。子どもと同じ目線で、同じように楽しんで同じように泣くことで初めて何を感じて、何を考えているのかがやっとわかるんですよ。お互い。それなのに、コロナ下では距離を取れと言われて。初めの半年くらいは試行錯誤の繰り返しでした。もう毎日毎日、教員皆で話し合って。設備も人員も限られている中で。通常の業務に加えての色んな対策ややり方の変更や、もうありとあらゆることを考えて、くたくたでしたよ」

「そうだよね。僕の仕事はお客さんと必ずしも喋らなくても他の方法があるけど、教師は直接子どもと相対すること自体が仕事だからなあ」

「そうなんです。マスクが防御のために必要なのはわかるんです。でも、そのマスクで子どもの表情もほんの一部しか見えないし、こちらの表情を見せることができない。お互いの表情を見せ合うことが教育の入り口なのに、それができない中での教育ってどうすればいいのっていうことばかり考えていました」

 私は話しながら、思い返していた。あの一年目、二年目、三年目の苦しい日々を。試行錯誤を繰り返すのと同時に、ワクチンや薬も徐々に行きわたり、段々と何が蔓延防止になるのかがやっと科学的に解明されて来て、やっと”第二十何波”なんて数えること自体が意味のないことになって、日本では数百人の軽症者はあるものとして今は理解されている。それは世界で何百万という死者を残念ながら出した事実を忘れてはいけないし、未だに後進国では毎日多くの人々が十分な医療を受けられないまま亡くなっている現実がある。

 長い沈黙の後、河井さんが言った。

「難しいことだよな。政治が悪いって言ったところで問題は解決しないし。僕は世界の先進国のリーダーが今とりあえず要らないそのお金を対コロナのワクチンや特効薬や医療従事者の確保や設備に回せば一年位で収束すると思っていたんだけど。そんなことはできるわけなかった」

「そうですね。私達は極めて限られた条件でできることを精一杯やるしかなかったですよね」

「うん。残念だけど。たまたま、僕の会社では業績は散々だけど何とか持ちこたえているし、コロナにも一人として感染することなく来ているんだよ」

「そうでしたか。私の学校では少し出ました。幸いにも皆軽症ですみましたけど」

 ランチの時間。この店もひっきりなしにお客が入って来る。つい去年までは何度も休業要請があったことだろう。この光景こそが幸せなのだ。誰に制限されることもなく、美味しい御飯やお酒を共にして、楽しいお喋りをする。好きな歌手のコンサートに行き、図書館で何冊も本を抜き出して選ぶ。愛する人と好きな場所へ好きな時に旅する。そんな当たり前の世界。

 私達は店の外へ出た。見上げた空に、今より世界がもうこれ以上悪くなることはないと思った。

「加奈さん。もうベテラン教師なんだね。これだけのことを乗り越えて来たんだ。すごいよ」

「ありがとうございます。河井さんも同じですよ。生きる場所は違っても、誰もが何とかかんとか踏みとどまっているんですから」






  

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