或る古書店店主の物語 第二十六章 田中(三) 作:越水 涼

 第二十六章 田中(三)

 その、孤独だと思っていた私が、三十八年後の今どうなんだろう?人は誰でも孤独なんじゃないか。生まれて来る時も死んで行く時も一人という意味ではそうなんじゃないか。でも生きている間はどうだったんだろう?誰かに助けられ、誰かのお陰で生かしてもらった、とこの年になるとやっと分かって来た。そんな一言で言えることでもないかも知れないけれど。

「河井さん?」

「ああ」

「今、何回も呼んだんですよ」

「あ、ごめん。意識があの頃に行ってた」

「それで河井さんが豊橋にいた最後の年のことですよ。卒業して、聴講生で残ってくれたのにBOXにあまり顔を出してくれなかったじゃないですか」

「そうだった。あの時は自分のことだけを一番に考えてしまって」

 今でもよく憶えている。当時住んでいた下宿の近くの酒屋の前にあった緑の公衆電話で母に電話した。内定を断ってもう一年残りたいと言った私の言葉に母は泣いた。あの会社でいいんじゃないの?公務員なんて受かるの?と言う母の言葉。私にも自信はなかったがその時の私はそう決めたのだった。

 私は部長になった田中を助けるために残ったわけではなかった。自分の就職の公務員試験の勉強のためだったのだ。しかし一方で私は部長の大変さも少しは分かっていた積りだし、彼を助けるためにとも思ってはいた。ただ私もできるだけ自分で生活費を捻出しなければならない。事実その一年は殆ど彼との連絡を絶ちバイトに時間を割いた。肉体労働のに疲れ、自分に甘い私はどんどん孤独になって行き、試験勉強などやる気もなく、ただ五木寛之や松本清張や森村誠一といった作家の文庫本を読むことに逃げていた。時々、深夜誰もいないBOXに行き泊まったりもした。そんなことで”孤独”になった気になっていたのだ。そんな馬鹿げた生活を続けていた。

「なんかショックでした。僕の周りとは変わった考え、少なくとも高校には話を聞いてくれる友達もいなかったのに真剣に聞いてくれた河井さんが急に離れて行ってしまったみたいで」

「そうだよね。悪かった」

 しかし、振り返れば私が親元を離れて大学に行こうとした目的は何だったのか。そこまで話を戻さないといけない。

「CD替えるね。みゆきでいいかい?」

 私は田中の返事を待つことなく、”ハマショー”を知る前から聴いていた”みゆきさん”の『予感』をセットした。


コメント

人気の投稿