或る古書店店主の物語 第二十八章 田中(五) 作:越水 涼

 第二十八章 田中(五)

 僕らは河井さんの軽トラで港の傍の小さな喫茶店に来た。その店の前にはオリーブの木があった。残念だが今は実がなる季節ではない。

 やっぱり会いに来てよかった。僕にとって河井さんは今の僕の心の拠り所になった人なのは確かだった。僕の話をあの頃からちゃんと聞いてくれた。あの時代の記憶があることでどれだけ救われたか。河井さんはいつも、あの時の思いつくできる限りの経験や知識で意見してくれていたと思う。

「河井さん、今日は楽しかったです。お互い歳を取ってしまいましたけどまだ病気にはなっていないんだし」

「うん。楽しかった。もっと話せたらいいんだけど。本当は酒でも飲みながらな」

「ええ」

「まだ時間あるんだっけ?」河井さんはコーヒーを啜って、窓の外を見ながら言った。

「ええ、三時過ぎのフェリーに乗れば七時前には神戸に着きますから」

 さっきここへ来るまでの車の中で、神戸のホテルに妻と一番下の娘と旅行に来たのだと話していた。それで河井さんの古書店にも立ち寄ることにしたということも。

「じゃあここのところ思ってる、俺が話したいことを聞いてくれるか?」

「もちろんですよ」

「ありがとう。人生何が幸せかって、お帰りなさいって迎えてくれる相手がいることだよ。男なら奥さんがいる。女なら旦那さんがいる。そういうこと。そんなの大昔からの多くの場合当たり前な生活だと思うんだけど、色んな事情で一人でいる人もいる。ある時までお帰りなさいって言ってくれる人がいたけど今はいないという人もいる」

「そうですね」

 丁度、窓の向こうに若い夫婦が小さな子を抱っこして歩いていた。

「ここ数年さ、本を読んでいてもその時は感動して読んでるんだけど、読み終えて次の日にはもうそのストーリーを殆ど憶えてないんだよね。でも、何かの拍子に思い出すこともあったりして。田中とのことにしても今日話しながらあんなこともあった、こんなことも話したってこと次から次へと思い浮かんで来たんだよ。不思議だよね。まあ、本や昔の記憶も大事だけど一番はそういう家族だね」

「はい」

「それでさ定年近くなってさ、定年後どうしようか考えてた頃によく思ってたことなんだけど。ざっと三十五年間で年二百五十日ぐらい通勤したとして九千日だよ。そんな日数を同じ時間に起きて会社行って、七時から十時くらいの間に帰宅して寝る。それって考えたらすごいことだよな。例えばさ、オリンピックで氷だか雪だかの壁を滑って宙に飛んで回転してっていうような技で金メダル取ることって、それはそれですごいなって思うけど、もちろんどうやってもそんなこと俺にはできないけど、その彼だって九千日会社に通えるかって言ったら多分できないと思うんだよ。何が言いたいかっていうと、誰もがその自分の人生を懸命にやればいいってこと。その時々の判断でさ。俺だって何時に起きようが寝ようが自由気ままな親のすねかじりをある日を境にやめて、その翌日からずっと延々と三十五年以上会社に勤めて。同じような、これと言って大きなイベントもない生活をして来た。楽しいことより悩むことは色々あったよ。夫婦の危機だって何度でも。鬱になって一切のことを考えられなくなったり。その度に泣いたり、落ち込んだり、悲しんだり、死ぬことばかり考えたり、何かから逃げたり。でも何が正しくて何が間違いだなんて誰にも決められないと思うんだよ。毎日曖昧なままでもいいじゃないのって思うようになった」

 河井さんからこんな真剣な話を聞くのは学生時代以来だった。社会人になって旅行やら行く時はそういう話はお互い避けていたのかもしれない。

「でも最近だと二年前のロシアが始めた戦争で多くの市民が殺されたり原発が攻撃されたりとかあったけど。もちろんそれより前にも世界中で戦争や殺戮ってことはずっと色んな場所であって、でもそれをやめさせることを自分は何もできないしって思ってる自分がいる。殺し合うより酒飲んで馬鹿話してる方がどんだけ楽しいかわからんのかって思ってるだけで。そんなことに金と時間使うんじゃなくてさあって」

「そうですよね。もっと別の、例えば途上国へのワクチンや飢餓対策や大国のリーダーや金持ちにはやるべきことがいくらでもありますよね。でも僕らに何ができるんだろうって思います」

「うん。学生時代もそうだったけど、自分は安全な場所にいて思ってるだけ、言ってるだけ、記事に書いてるだけなんだよね。そんな人間に何か言う資格はないのかもしれない」

「まあそうですけど」

「俺はせめて一日に一回、世界のどこかで今やられている争い事が終わることを祈るようにしてるんだよ。それ位しかできないのがほんと情けないんだけどさ」

「そうですか」

「それでさ。帰る場所があること、お帰りって言える相手がいること、感謝の気持ちを持てる生活の場があることが大事なんだ。本来さ、人間誰でも一緒なんだよ。生まれて来るのも死んで行くのも自分の意思じゃないんだから。人に優劣なんてないんだよ。”雑”って言葉あるだろ。悪い風に使う言葉として。でも雑木なんてこの世にないんだよ。雑木林の雑木にだって色んな場所で色んな風に加工されたりして役目があって。人間だってそこで懸命にさ、そりゃあ時々はサボって、時々は逃避したとしても、基本楽しくやればいいって思う。そんな風に定年の数年前から今まで思ってる。今の古書店店主もそうだよ。誰か彼かとどうでもいいような、何でもないような話ができて、時々昔のことを思い出してさ。田中はどう思ってるか分からないけど、あの時代に田中や色んな人達との会話や行動や思いを、時々でもたまにでも、それぞれの生きている場所で暮らしながら例え会うことがなくても思い起こして共有できる。それが生きる糧になってる。その記憶で困った時にでも何とか生きて行ける。俺はそう思ってるよ」

「そうですね。僕も同じですよ」

「それより何よりお前には家族が一杯いるんだし。そんな幸せな人そういないぜ。ああ、人と比べたらいかんのだけどね」河井さんは笑って言った。

 二人喫茶店を出た。僕は自分の体に多くの空気が送り込まれた様な気がしていた。大分しぼんでいた風船が今にもはち切れるくらいに。

「ありがとう」

 ずいぶんと皺としみができた右手を差し出して河井さんが言った。そしてその手をきつく握り返して僕は言った。

「お元気で。また会いましょう」




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