新しい太陽と小さな幸せ 第八話 作:越水 涼

 新しい太陽と小さな幸せ 第八話 作:越水 涼

 尿意を覚えトイレに立つ。僅かに頭痛がする。相変わらず就寝前に歯を磨く習慣がなく、口の中は粘りがあり、そして乾いている。ガラケーを開けて時間を見ると四時を少し過ぎたところだった。今日も部屋に妻の布団はない。カーテン越しの外はこの季節でも流石にまだ暗いままだ。

 私は記憶を巡らしてみる。

 昨日会社の前のツツジを見たこと。株によって違うが赤紫の花を咲かせたもの、まだ万年筆のペン先のような形のつぼみのものがいた。つい三週間前には桜が主役だった街の風景も、ツツジやチューリップや他の新緑の木々達にとって代わられている。それと、職場のカウンターの上の”スパティフィラム”の鮮やかな緑の葉の中に花のつぼみがふたつあるのに気付いた。数日の違いはあるが毎年この時期に花を咲かせる。咲く花は三つの年もあれば四つの年もある。水だけでよく生きていると感心する。いつからだろう?取引先からもらったと思うのだが、何年前のことだったか。しかし二十年にはなるだろう。

 週末のあと何時間かで仕事も終わる午後、同僚のHに問われる。

「河井さん、土、日は何してるんですか?」

「なんもないさ。掃除機かけて、洗濯して、読書かなあ」

 私のいつものお決まりの回答だった。そんないつもと変わらない面白くもない返事に、マスク越しの彼女は苦笑しているように見えた。私は続けて言った。

「だけど洗濯物を干すのは、タオルとハンガーにかければいいもの以外は奥さんか娘にやってもらうんだ。洗濯バサミが一杯付いた物干しハンガーって言うのかな、あれに吊るす下着類のはね。難しくて何回やってもやり直しさせられるからさ」

「はい、はい」

「最近じゃ、それだけ残して。後は頼むわって」

「分かります。分かります。男の人って苦手ですよ、ああいうこと」

 本心は分からないが、Hはいつも優しい物言いをしてくれる。そんな優しさに私は複雑な思いを抱く。

 戦禍に追われ、砲弾の音に晒される人々。一ヶ月も二ヶ月も地下シェルターに身を隠す人々の苦痛に比べれば、私の日々の悩みなど無きに等しい。と言うより、比べることなんてできるはずがない。四月の残業時間が五十時間を超えて、眠りが浅い為か、この三十七年会ったことのない先輩が夢に出て来ても、毎日三食食べられて、睡眠も七時間確保できている。加えて、毎晩安酒を飲み、図書館で借りて来た本を読み、テレビのドラマを観る。永く会ったことのない人が夢に出て来ると、自分は疲れているんだと言い訳する。そう思い込もうとする。突然の来客応対をやるよう言われ、一時間手元の仕事がストップしたくらいで苛立っている。しかし、一息すれば私の気持ちは落ち着き、今日は仕事が終わったらラーメンを食べに行こうかやら、本屋の立ち読みもいいなやら、喫茶店で久し振りに小説の下書きを書こうかやらと考える自分もいるのだ。

 二月に急死した私の大好きな小説家西村賢太の”随筆集”に面白いと書いていた「木内昇」の名。何のことはない、我が家で取っている新聞の連載小説を今書いている人ではないかと昨日気付いた。彼が面白いと言うなら読んでみようかと先週の休みに図書館で探していたのだった。そして昨日の分から読み始めている。

 そして五時。小説の下書きを書く私の耳には、いつものように外の電線に止まり、チュンチュンと鳴くスズメの大合唱が聞こえ始める。この一ヵ月の納品請求書の発行や決算のまとめに関する諸々のことや本来私の課の仕事ではないだろう課題のことや各種助成金のことや給料計算なんかのことを考えた。そんな多忙な四月の日々のことをつらつらと反芻していた。来週は少しは時間ができるといいなと思う。それと今週、朝の通勤途上で見た日に日に増えて行く柿の木の黄緑色の葉に癒されたし、数年前はNHK名古屋局にいた女性アナウンサーが今は東京局で花形の朝のニュース番組に出ているのを見て感激したのだった。

 外は明るい。二枚のカーテンを開け、窓を開けた。ひんやりとした空気に青空に、今の世界中の戦争が即刻終結することを私は強く祈る。


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