或る古書店店主の物語 第三十一章 弘子(三) 作:越水 涼
第三十一章 弘子(三)
テーブルの弘子の前にコーヒーカップを置きながら浩二は語りかける。
「で、会いに来てくれたのは凄く嬉しいんだけど何で今日なの?」
「実は、娘と孫と私の三人で旅行なの。目的は神戸観光なんだけど、私だけ折角だからこの島まで来たのよ。この歳になってやっと来れた」
弘子は大学時代とそう変わらぬ切れ長の目で微笑みながら言った。そしてコーヒーにふうっと息を吹きかけてから一口飲んだ。
「そうなんだ。じゃあ今日はどこかで待ち合わせているんだね?」
「うーん、さあどうでしょう?」
どうでしょうとはどういう意味だ?浩二は戸惑う。そんな思いにお構いなく弘子は話し続ける。
「五年?六年?金沢で会ったのって」
「六年前かな?楽しかったな。あの日の数時間。家族も金沢にいるのに別行動で大昔の恋人に会ってビール飲んでるんだから笑えるよな」
あの日、ひがし茶屋街の蕎麦屋で会って、公園で開かれていたJAZZのライブを見ながらビールを飲んだんだっけ。
「私も何だか久し振りに気分は上々だったのよ。仕事で疲れ気味だったから」
「そうだよね。オレも定年近くで色々あったなあその頃」
窓を開けていると、遠くから”ちちちーちちちー”というような鳥の鳴声が聞こえてくる。この季節だからヒバリだろうか。そんなことを考える浩二のことは気にせず弘子が話す。
「実は私、定年より前に辞めちゃったの。大学の仕事」
「ああ、大学で就職課だったっけ?」
「そう。もう自分の好きなことだけやりたいなって思っちゃって。人が喜んでくれることを給料もらってできるなんて楽しいって、ある時期までは思ってたんだけど、何か違うなあって思い始めてね。人が喜んでくれるのは勿論うれしいから、その人がどういう境遇かってとこがポイントでね」
「それで、何やってるの?弘子は」
「四年前のロシアがしかけた戦争の時に日本にもウクライナから避難して来た人がいたでしょ。福井にもいてね。私、何だか放っておけなくって。そういう人たちを支援するNPOがあってね。そこで働いてるの。こんな私にも何かできることはあるんじゃないかって思い始めて。日本の大学生の就職活動の補助なんかより、もっと寄り添うべき立場の人がいるよなあって思っちゃってね。もう、思ったらすぐ行動だったの。あの時は不思議なくらい早かったなあ」
「へえー」浩二はただただ驚くばかりだった。
「凄いなあ弘子は。オレなんか、思ってるだけで終わって来たもんなあ。テレビや新聞を見て戦争はいかんって思う。武器じゃなくて、文学や音楽や美術や食べ物や映画で戦えばいいのになってね。それから、殺されるのはいいけど殺すのは嫌だって思ったなあ。どっちにしてもよそでやってる戦争なんだって思ってる自分がいるんだよね。自分のすぐ前であんなことが起こってたらどうするんだろうな。分からなかったよ」
「そうよね。でも私は、単純に困ってる、助けを求めてる人の力になりたかったのね。自己満足なんだけど。それでいいじゃないかって。だって完全な手弁当だからね。給料はないのよ。でも毎日充実してるの。結構色々やることあるのよ毎日」
弘子の話す声が明るく、力強く、生き生きとしている。それに比べて浩二はいよいよ自分のこの数年の日々が空しく、何もして来なかったんだと思い知らされるのだった。
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