或る古書店店主の物語 第三十六章 弘子(八) 作:越水 涼

 第三十六章 弘子(八) 作:越水 涼

 浩二のこの笑い顔が私は好きだった。最初に会った時も、そしていまも何か控えめに笑う。もっと大きく遠慮なしに笑えばいいのに、と思うこともあったけれど。何につけ彼は控えめなのだ。それは全然変わっていない。右へ行くか左へ行くか、すぐ決めて欲しいのにいつも私に聞いて来た。優柔不断というのか、こだわりがないというのか、でもそんな彼の性質を私はきっと心地よく思ってたのは間違いないのだ。ただ、やる時はやるっていうのも私は欲しかったのもまた、そうなのだ。女って都合のいい生物だなって思う時もよくある。

「弘子?どうかした?」

「ううん。何でもないよ。でも、何か不思議ね」

「何が?」

「お互い家族があって、それで遠く離れた島で会って海を見ながら昔話してるなんて。ほんとに小説みたいだなって思って」

「そうだね。笑えるな」

 浩二はまた、ひっそりと笑った。

「あのさあ、前会った時話したかなあ。聞いてくれる?」

「うん。聞く、聞く。時間はたっぷりあるよ」

「ん?帰りのフェリーの時間はあるよね?」

「ま、そうだけど。まずは話してみて」

「ああ、分かったよ」

「実はさ、死ぬことばっか考えてた時期があってね。こんなに頑張ってるのに何で自分は評価されないんだろうって、悩んでさ。会社でも家でもそうだった。毎日毎日残業してくたくたになって帰って、家の中でも色々と解決できないことがあって、奥さんも笑顔がどんどん減って行って」

「そっか」

「ある年のゴールデンウイークに俺だけ三日くらいかな出勤して昇給計算してね。決算の役員会も何とか終わったけど、五月の給与計算で力尽きたって感じで、五月の三十日の会社帰りにね、借りてる駐車場から奥さんに電話したんだよね」

「うん。何て?」

「それがさ、なんかおかしくなったって。頭で何も考えれんって言って」

「そうなの?それで?」

「その日は何とか帰って、奥さんに相談して、心療内科さがして次の日行ったんだよね」

「ふーん。そんなことがあったんだ。私はかかったことないな心療内科は」

「そりゃ、そのほうがいいさ。もう余計に気分悪くなりそうだったよ。受付はあるけど診察室は広い書斎みたいで、何か医療器具があるわけじゃないし。先生からはこんなのはうつ病でも何でもないよなんて言われてさ。睡眠薬出してもらったくらいで、結局は本人のやる気次第みたいな話でさあ。やる気が出ないからこっちは困ってるんだけどさ」

「そうね」

「大抵、横になったらあっという間に寝てたのが、あの頃は朝外が明るくなってくる時間まで寝られないんだよ。それが半月くらい続いて、会社でも上司がやっと考えてくれて、というか俺が一日中机の前にいて何もできないから、課内の雰囲気も悪くなって、ほとほと見かねて、自分や他のメンバーに仕事を振ってくれてね」

「大変だったね」

「うん。その眠れない時に何回か会社の屋上まで行ってさ、フェンスに手をかけて登ろうとしたんだけど、それ以上は勇気がなくってね。だから今もここにいるってわけだ」

 私は話しを聞きながら自分でも知らないうちにテーブルの上の彼の手を握っていた。昔と同じ全然男らしくない、ごつごつしていなくて白い指。でも私は、私があの頃確実にこの人に救ってもらったのだと思っている。彼は自分では気づいていないのだけれど、ボソッと発してくれた一言で私は何度も何度も助けられたのだ。

「それからは徐々に普通に戻っていって。でも役職は外されてね。その後はずっと平社員さ。少しして他の課から十歳以上年下のやつが一人来て。給料もごそっと減らされたし」

「そうなんだ」

「うん。でもその後はまたどんどん仕事は前以上に増やされて、給料は戻されずで。おかしいことばっかりだよ。でも、一つ言えるのはさ、周りの人の手を借りればよかったってことなんだよな。同じ課同じ会社の人間なんだから、助けをこちらから求めればよかった。もっと早い段階で周りに遠慮せずに言えばよかったなって、今じゃあ後悔してるよ」

「そうよね。私が働いてたところはたまに残業すればこなせるレベルだったけど。それがいいのか悪いのか分からないけど」

「そりゃあ、そのほうがいいさ」

 私は浩二の声を遮る形で店員を呼んだ。今度は私の話を聞いてもらおうと新しい注文をしたかったのだ。





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