或る古書店店主の物語 第三十七章 弘子(九) 作:越水 涼

 第三十七章 弘子(九) 作:越水 涼

 店員が二人分のホットコーヒーを置いて去って行った。まだ十代にも見える彼女は、私達のことをどう思っているだろうか。

「さっき話したでしょ。ウクライナから来た人達の支援のこと。私その活動に関わって凄く充実感があるのね、今」

「そうか。いいことじゃん」

「そうなの。始めた頃は中には頭の堅い役所の人や古い考えの地域の人がいたりして、事がうまく運ばないことが一杯あったの。でもだんだんと、そんな人達も頭では分かってたことが気持ちの中でも分かってくれるようになって、とても協力してくれるようになったの」

「うん。そうなんだ。よかったな」

「ええ。この三年で三十人くらいかな、日本に住むための細かな手続きから始まって、住居と働き口の手配だとか色んなことをやって来たの」

「大変だよな。そういう仕事も。俺にはできないだろうなあ」

 誰かがやるしかないのだ。もし何もせずに自分には安穏とした生活があるとしても、もし僅かにでもこのまま何もしないでいいのかと思う気持ちがあるのならやるべきじゃないかと。私には多少の蓄えがある。この無償の仕事で収入がなくなってもいいじゃないかって思った。きっとそう思えたのはそれまでの社会での経験や学生時代の経験と小説や映画やテレビドラマで考えたことやそういう色んなことを自分の頭と心で消化したからなのだ。

「ね、浩二さん?私の考え話していいかな?」

「うん」

「この仕事をやり出す少し前にね、テレビのドラマで”二十四の瞳”を観たのね。その主人公の、戦時下で私達には想像もできないような色んなことがあっても生きて行くって話しで。教師として妻として母として自分が正しいと思うことをやって行くのが人間なんだって。人として生まれて来たのはそういう意味があるんだって思ったわけね。そのドラマを観て私なりに出した結論があって」

「うん。どんなこと?」

「そうね。何か抽象的なんだけど言うね。えーっと、透明なものを裏から見ても透明とは限らない。見る角度だったりこちらの気持ちや心持ち次第で違って見えることがあるってこと。それと、自分が弱いと人も信じられない。だから私自身が強くなろうって思ったの」

「なるほどな。でも弘子は学生時代から強いと思うけどな」

「ううん、そんなことないよ。いつも泣いてたもん」

 浩二がコーヒーを飲んだので私も一口飲んだ。今度は浩二が話した。

「今弘子が言ったことときっと同じ意味だと思うんだけどね、確か昔読んだ雑誌の中でオレの好きな小説家の角田光代さんが言ってたことなんだけど。この世の中に存在するあらゆるものには固有の美しさがあると。いつだって足りないのはそれを見るこちらの側の力なんだと。本当にそうだって思うよ。目の前に毎日接してる相手がいるとして、何か悪い所しか気付かないとしたら、それはこっちがしっかり見ることができる状態じゃないってことでさ。会社で凄く嫌なことがあって、不安定な心理状態で相手のことを見たり、思いやることなんてできないっていうこと。その逆で、こっちが強くなって相手のことや世の中のことやちゃんと見ることができる状態ならいいんだよな」

「そう、そういうことよね」

 私達が話し込んでいるうちに他の客はいなくなっていた。あの若い店員もやることがなく窓の外を見ている。

「そろそろ出ようか?」

「そうね」

 この後私達は店を出て駐車場へ向かった。駐車場に着いて車に乗り込むと浩二は言った。「折角だからすぐそこの砂浜歩こうよ」その浩二の言葉に私は頷く。浩二の言ったように五分で”オリーブビーチ”に着いた。まだ海水浴の季節には間があるこの時期、砂浜を歩く人はまばらだった。私達は暫く歩いた。

「きれいな海」私は独り言のように呟いた。

「そうだね。きれいで大人しいね」

「はは、大人しいと来たか。浩二さんってば」こんな風に話すのは楽しかった。

 おもむろに浩二は足元に自分のバンダナを広げた。

「ここ座って。弘子」

 私がバンダナの上に体操座りで座ると、浩二はそのまま同じ体操座りで座った。

「弘子、憶えてる?伊古部海岸」

「ええ憶えてるよ。前期試験が終わった日の夕方から行ったよね。あの夜も色んな話したなあ…」

 ぽつりぽつりと話しをして、私達はフェリーの出る港へ向かった。

                 *****

 神戸で待つ娘と孫の顔とさっきまで目の前にいた浩二の顔が交互に浮かんだ。フェリーの走る後ろにできる泡を見ながら、私はこれからも強い意志を持って生きて行くことを決意していた…。

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