さいごのツクツクボウシ 作:越水 涼

 さいごのツクツクボウシ 作:越水 涼

 早朝や夜に秋の虫の声を聞くようになった。

 九月の上旬のまだ暑さの残る昼間。私は市役所の中の郵便局へ行くのを主な目的として会社を出た。会社の前の歩道には風に吹かれて落ちた銀杏の青葉がそこらここらに落ちている。会社の前ぐらい掃き掃除しなきゃなと思いながら私は歩く。喫茶店の前の交差点の信号待ち。ふとそこに柿の木が植えてあるなと思う。銀杏やツツジ位なら普通だが柿の木が歩道脇の狭い場所にあるのは何だろう、この喫茶店のオーナーが勝手に植えたのかなあと想像した。信号が変わって横断歩道を渡る。前から左折してくる車が遠慮なしに突っ込んでくる。私はただ舌打ちしてそこに止まる。「馬鹿野郎!」と叫ぶことなんてまさかできる人間ではない。その角には岐阜では一番の信金がある。まず私はそこに入りATMで記帳した。そのATMの機械の音声が私には大きすぎる。老人向けなのだろう。もう少し小さくてもいいのに。

 そこを出て歩くと美江寺公園がある。季節ごとに春なら桜、夏なら噴水、秋なら銀杏と私は銀行周りに行く時や昼休みの弁当を広げるのにずっと身近な公園だと感じている。そこの木に止まるツクツクボウシの鳴声が聞こえる。真夏の蝉よりはこの声の方が私は好きだ。やっと夏が終わるんだねと思う。と言っても私は夏が嫌いという訳ではない。ビールは旨いし、素麺や冷蕎麦はきっと夏だからこそ旨い。ただ冷房の効いた屋内から出た時のもわっとする暑さだけが厭なのだ。むしろ季節とともに食べることのなくなる素麺とおさらばすることの方が悲しいと思う。夏は毎日でもいいくらいに素麺が好きだから。ツクツクボウシの声の前で、噴水の上がる水路に入り水浴びをする幼児が愛らしい。それを見守るお腹の大きいお母さんの姿も美しい。

 もう一回信号を渡って歩くと市役所がある。去年の五月開庁した十八階建がそびえ立つ。自動ドアを入ると体温を感知して消毒液も出る機械があるのだがこれもご多聞にもれず、可笑しな数値が出る。三十一度?まさか。いつまでこんなことをやり続けるのだろうと思いながらもまさか蹴っ飛ばすことなんて私にはできない。正面玄関を入り無駄に二人もいる受付の前を左へ折れて行くと郵便局がある。以前は私の会社から一分で行けた郵便局が市役所の開庁に合わせメンバーもろともこちらに移転した形なのだ。タイミングが悪かったか、客が多い。待つための紙を抜いて待った。ふと傍には、三歳か四歳か同じ顔をした男の子が落ち着きなく、何やら歌を歌っている。保険の手続きをしているのだろうお母さんがその子たちを気にしつつ話を聞いている。私は「靴のままソファーで飛び跳ねたら駄目だぞう!」などと吠えることなどせず、その若い母親のマスクの奥の顔を想像した。

 そうして眺めていると「○○番の番号でお待ちのお客様…」の人工アナウンスが聞こえた。私は店頭に行き、一件の払い込みをする。現金取り扱いの手数料を節約するために、通常貯金の通帳と入金票と払出票と加入者負担の払込票とそれらと同じ金額のお金とを出す。僅かとは言え一月から取るようになった百十円の手数料を節約するためにやっている。ただ実際はこんな節約をしたところでもう一方では何十倍何百倍の無駄金を使うようなところが私の会社の問題なのだが、それはまた別の話として。今の時代どこの金融機関も現金や手形や小切手を扱わない方向に向かっているのだ。未だ小銭を持ち歩き、ガラケーの私にとってみればその画面上の数字に何の意味があるのかと言いたい。この手の上の金属のゼニと透かしの入った札を馬鹿にするなよと心の中ではいつも思っている。

 「○○様」と呼ぶ声にふと我に返った。通帳などを受け取ってから私は言う。「実はコロナにかかってしまって」私が被保険者のかんぽで入院特約でお金が受け取れるのを知って話を聞きたかったのだ。自分のことも大事である。保険だから払うばっかりでなくてもいいと思う。当たり前だが助け合うのが保険なのだ。お互い様なのだ。一通りの説明を聞いて郵便局を後にした。その後立ち寄ったATMコーナーの傍の休憩所でさっきの親子三人が何やら食べているではないか。これからは君たちの時代。元気で大きくなれよ。周りの人達と助け合って楽しくやっていけよ。遠目に見ながらそう思う私であった。


コメント

人気の投稿