続続続続・ほろ酔い加減でひとり旅(後篇) 作:越水 涼

 続続続続・ほろ酔い加減でひとり旅(後篇) 作:越水 涼

  九月の初旬のある日、私は一人、旅に出た。その朝はJRのとある駅からまずN市へと向かった。今日はハンドルを握らないことにしていた。ここ数日頭の中でいろいろ考えていた。朝から呑むことは必須項目として、ネットで見つけた二十四時間営業の寿司屋で鱈腹食べるつもりだった。が、見つからないのだ。取り敢えずはもう一つの目的の映画のチケットを購入して別の店を探した。あちこち回ったがいい店がなく、結句吉野家に入った。瓶ビールはなくジョッキビールを注文した。一口飲んだだけで顔が熱くなる。平日の九時に客が四人。それは朝食ですか?早すぎる昼食ですか?胸の中で私は彼らに問いかけながら、自分はシンプル牛丼を食べ、ビールも一気に飲み干して入店わずか十五分で店を後にした。そして、映画『百花』を観るべくビルの映画館へと向かった。

 主人公と認知症の母とのストーリー。ごく簡単に言ってしまうと”記憶”について考えさせられる映画だった。過去のいい記憶も悪い記憶もあって、いい記憶だから残っているとも言えないだろうし、悪い記憶だから残っていないとも限らない。そしてそれらは当人の思う思わないに拘わらず恐らく一部しか残っていないのだろう。時には間違って記憶されることもある。主人公に向かって何度も発せられる「半分の花火が見たい」と言う母の言葉。思いもよらないその母の記憶こそが正しかったのだ。

 しかしそんな記憶についてが、実はこの後の今日の私の旅の中で思い知らされることになる。私の記憶こそ曖昧なのだ。しかしそれは四十年近い過ぎ去った時間のせいだけではない。その場所や時空にいた自分の気の持ちようが、きっと記憶をしまう箱から締め出したり、半分しか入れなかったりするのではないか。私の思っていた出来事や歴史や光景が四十年近くも間違って記憶されているのかも知れないという恐怖に繋がって行くのだ…。

 N市を後にした私は大学生活を五年過ごしたT市へと向かった。住むことが決まってから初めてこの街に来たのは、確かに母と一緒だった。まだ今の私よりもずっと若い母。その日、大学生活を送ることになる下宿の先輩の部屋で色んな話を聞いた。とても大人びていてやっぱり大学生は大人だなあと思ったものだ。その後、四年に加え十か月程を歴史ある地方都市T市で過ごすことになった。今でもそこは私は第二の故郷だと思っている。良くも悪くもこの街で過ごした時間が私の物事や人に対する考え方、接し方を形作ったと完全に言える。

 その思い出の街の中でも今回の旅では、南栄の周辺と大学の周辺、四年生の時にいた下宿のあたりとT駅前を歩き回った。南栄では、当時塾のアルバイトへ行く途中で必ず”のり弁”を買った”ほっかほっか亭”はなく、名前は憶えていないが何度か行った大衆食堂もなかった。短大門から出たところにあった友人が住んでいたアパートはなかったが、”かちかち山”という喫茶店がまだあった。確かモーニングや朝定食(和食)を食べたと思う。北門前の道はなぜだか今も中途半端な印象で、これなら昔の”亜羅人”や”A-ONE”があった頃のままでいいじゃないかと思った。そして大学の斜め向かいにあって、金のない時百円のキャベツを買った”サークルK”はもちろんなかった。コンビニが今ほどはまだない頃で二十四時間営業のこの店は夜型人間の大学生にとって天国のようだった。キャベツの千切りにマヨネーズをかけて食べた記憶が巡ってくる。ここから裏の細い通り沿いに友人のアパートと私の下宿があったがそれもなかった。

 こんなことをしてどうなるのかと思いつつも、私は寂しいのだ。この変容した街に確かに生きた年月を、証拠をどこかに見つけたいのだ。背中に汗をかき、歩き疲れた私は柳生橋駅から乗ってT駅前へと向かった。そして”精文館書店”で『百花』の原作本を拾い読みした。もう店頭には来年の手帳やカレンダーが並べられていた。私はそんなに先のことを考えるのかと思ってしまう。片や四十年前の記憶を辿る者。片や将来の計画のための印刷物…。

〈そうや。大学前駅を通過する時に。”立看”を立てる鉄の台が正門前の広場にあったわ。確かに一瞬だけど見えたよな。今もピュアな学生が世界に目を向けてさ、見えない敵と自分自身と闘っとるんかなあ〉

 そして”喫茶フォルム”に来ている。月に何冊も本を読んで感動しても、誰かと熱烈な関係を持てたとしてもそれらが何十年か先に記憶からなくなるのなら、ゆがんで記憶されて行くのなら、それは何の意味があるのだろうか?最近私はよく思う。つい一か月前に感激して読んでいたはずの小説のストーリーが思い出せない、そうなら読むために費やした時間は無駄になるのではないのかと。そして、この旅さえも何の意味もなさないのだろうかと思うのだ。けれど一方で思う。心の奥に”記憶”が眠っている箱がきっとある。何かの時にその”記憶”というエネルギーは時々で形を変えて出て来るのではないか。その時の私を助けてくれる形に変幻自在に変わって出て来るのだ。沈んだ私の顔を叩きにやって来るのだと。

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